今月の季語〈十一月〉 小春日和(2)
玉の如き小春日和を授かりし 松本たかし
を思うのではないでしょうか。実は二年前の「小春日和(1)」もこの句から書き出しています。それほどに「小春日和→玉」は他に代えがたい比喩なのだと思います。玉は宝玉であり、まどかな天球でもあり、文字通り完璧なる幸福感に包まれる句です。
この句はどうでしょう。
舟一つ空を漕ぎゆく小春かな 長谷川櫂
句集『九月』に〈まぼろしの舟走らする枯野かな〉と並んで収められている句です。二句同時に読めば、「まぼろしの舟」が小春の空をゆく景を思い浮かべるかもしれません。この句のみを単独で読むと、空を映しとった鏡のような水面を、一舟がゆく景を思うでしょうか。舟は孤独ですが、小春ですから、それを楽しんでいるように思えてきます。
俗名と戒名睦む小春かな 中村苑子
この句からは、生者と死者が小春の「玉」の中で遊ぶさまを、私は想像します。が、読み取り方はほかにもありそうです。作者が生前葬をとりおこなった人であることを前提にすれば、生きながら死ぬ、もしくは死んだのちを生きる、といったことも考えられそうです。
わが額に師の掌おかるる小春かな 福田甲子雄
この「師」は飯田龍太です。愛弟子の作者は末期の床にあって、その掌の温みに涙したことでしょう。遺句集『師の掌』のあとがきに、亮子夫人が次のように書かれています。
「この句は、手術後小康を得て退院し、自宅で療養に専念しておりました折に、飯田龍太先生ご夫妻が、わざわざお尋ね下さいました時のものでございます。ベッドの脇の椅子に掛けられた先生は、主人の額にしずかにそっと掌をおかれ、顔を近々と寄せられて、心底快癒を願ってくださいました。まるで時間がとまっているかのような、主人にとりましても、私にとりましても、それは何ものにも代えがたい至福のときでございました。」
天気を選んで見舞ったでしょうから、その日はほんとうに小春日和だったことでしょう。ですが、仮に氷雨の日であったとしても、「至福のとき」を過ごした思いが、やはり〈小春〉という季語を選び取らせたに違いないと思うのです。
小春日やりんりんと鳴る耳環欲し 黒田杏子
昭和五十二年作、御年三十九歳の句です。作者は、五十歳くらいまでは「小春日は穏やかすぎる」と思っていたそうですから、少し賑やかにしたくなったのかもしれません。弾みたくなるほどの良い天気と若さを感じさせる句です。
ところで、小春は陰暦十月の異称ですから、
あたゝかき十一月もすみにけり 中村草田男
も小春の句と言えましょう。この句ゆえに「十一月→あたたか」と思い定めている(そしてあたたかくないと「嘘つき!」などと思う)私たちではないでしょうか。
小春は冬の季語。ですが、冬になりきる前の恩寵のような束の間を表すととらえれば、まず間違いは無いでしょう。(正子)