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今月の季語(7月) 祭

kandamaturi大学生に〈祭〉の題を出すと夜店、花火、浴衣、金魚すくい、君、横顔、……と夏の夜の恋模様が展開します。中には「今年こそ」というものもあり、思いのほか古典的と申しましょうか、このジャンルには時代による違いをそれほど感じません。

大学生が想定したのはいわゆる〈夏祭〉の景です。その感覚は正しく、季語の〈祭〉は夏の祭をさします。古くは〈葵祭(賀茂祭)〉を意味したようですが、今は葵祭以外の夏の祭も〈祭〉と呼びます。総称として使えるということと、〈祭〉=夏の祭であるということを押さえておきましょう。

草の雨祭の車過ぎてのち     蕪村

大学も葵祭のきのうけふ     田中裕明

春や秋にも祭はありますが、〈春祭〉〈秋祭〉として〈祭=夏祭〉と区別します。

一子挙げ餅のうすべに春祭    文挾夫佐恵〈春〉

山々に深空賜はる秋祭      桂 信子 〈秋〉

〈葵祭〉に限らず固有名詞を季語に使える祭はたくさんあります。東京の人には五月の〈神田祭〉や〈三社祭〉こそが祭かもしれませんし、七月の〈天神祭/天満祭〉は大阪の、〈山笠〉は博多の大祭です。また七月一日からまるまるひと月続く京都の〈祇園祭〉も観光客がごったがえすイベントになっています。

ちちははも神田の生れ神輿舁く  深見けん二

喪にこもり三社祭もすぎにけり   安住敦

早鉦の執念き天満祭かな      西村和子

山笠の助走も見せず発進す     池田守一

東山回して鉾を回しけり      後藤比奈夫

祭の名前のみならず、ゆかりのもろもろが季語として使えます。

右の「ちちははの」の句は〈神輿〉が、「東山」の句は〈鉾〉が季語です。神田+神輿=神田祭、東山+鉾=祇園祭となっています。

祭のメインイベントは〈神輿、山車、山鉾〉などの巡行でしょう。が、ほかにもさまざまな季語があります。例えば、〈宵宮、宵祭、本祭、祭後〉などの日程と絡んだ季語。

潮騒と宵宮と遠きこといづれ      永井龍男

くらがりに柱を燃やす祭あと      対馬康子

〈祭笛、祭太鼓、祭鉦、祭囃子〉など音曲系の季語。

祭笛吹くとき男佳かりける      橋本多佳子

ゆくもまたかへるも祇園囃子の中  橋本多佳子

〈祭髪、祭足袋、祭稚児〉など装いに関する季語。

男らの汚れるまへの祭足袋       飯島晴子

路地に生れ路地に育ちし祭髪      菖蒲あや

左右より化粧直され祭稚児       森田 峠

また、祭にちなむ特徴的な食べ物や植物で詠むこともできます。

青竹の林を抜けて祭鱧        大木あまり

射干の花大阪は祭月           後藤夜半

名のある祭に駆けつけるもよし、近隣の祭に繰り出すもよし、祭は夏の体験型季語の代表と言えるでしょう。(正子)

今月の季語(6月) 夏の嫌われ動物②

katatumuri先月にひき続き、今月も嫌われ(つつも好かれている)ものたちを見ていきましょう。

一般に両生類、爬虫類は好き嫌いの幅が大きいようです。私は冬眠明けのまだうっとりした眼の蛇と、心ならずも見つめ合ってしまって以来、爬虫類が好きになりました。ただ蛇も夏になるにつれ、オーラが強烈になっていきます。夏の季語である〈蛇〉とは一定以上の距離を保てるようにせざるを得ません。その点〈蜥蜴〉〈蠑螈/井守〉〈守宮〉は造形的にも文句なくかわいいと思いますが、皆さまはいかがですか?

全長のさだまりて蛇すすむなり   山口誓子

蜥蜴と吾どきどきしたる野原かな  大木あまり

見つめているうちに、作者自らが蛇や蜥蜴と化してしまったのでは、と思える句です。

恋薬とぞ這ふ蠑螈踏みて啼かす   加藤知世子

子守宮の駆け止りたるキの字かな   野見山朱鳥

蠑螈が両生類、守宮が爬虫類です。蠑螈の黒焼は時代劇や落語でおなじみですが、恋薬としての実効性はどうなのでしょう。

亀と蛙も身近な存在ですが、亀は季語ではありませんし、〈蛙〉は春の季語です。〈亀の子〉ならば夏の季語、〈雨蛙〉〈青蛙〉、また〈蟇/蟾蜍〉〈牛蛙〉は夏の季語として使えます。

亀の子の歩むを待つてひきもどし   中村汀女

青蛙おのれもペンキぬりたてか    芥川龍之介

雨蛙退屈で死ぬことはない       金子兜太

蟇誰かものいへ声かぎり           加藤楸邨

飛驒の夜を大きくしたる牛蛙       森 澄雄

多くの人は水族館くらいでしかお目にかからない〈山椒魚〉も夏の季語です。オオサンショウウオは半分に裂いても死なない(と言われている)ので〈半裂(はんざき)〉と呼ばれます。一方を食べて残りを流れに戻しておくと元通りになるそうな。本当でしょうか。

おい元気かと半裂を覗きけり   茨木和生

これらの季語は、ひらがなで書くことももちろんありますが、漢字で書くことが多いです。これも俳句を始めたご縁と思い定めて、せめて読めるようにしておきましょう(書くときはその都度辞書をひけばよいのです)。

両生類でも爬虫類でもありませんが、今からよく出くわすことになる〈蝸牛〉と〈蛞蝓〉。漢字で書くと、蝸牛は殻の渦がぐるぐると見えてきますし、蛞蝓は今にもうずうずと動きだしそうに思えませんか? 見た目の面白さや美しさを求めて、表記はその都度選択するのです。

殻の渦しだいにはやき蝸牛      山口誓子

かたつむりつるめば肉の食ひ入るや  永田耕衣

蛞蝓といふ字どこやら動き出す    後藤比奈夫

来しかたを斯くもてらくなめくぢら  阿波野青畝

蝸牛も蛞蝓も野菜作りの敵ですが、やはり嫌い嫌いも好きの内の動物である気がします。蛞蝓はイヤ? そうですか。(正子)

今月の季語(五月) 夏の嫌われ動物①

kumo万物にエネルギーが充填され、今にも溢れ出しそうなこのごろです。私たちにとっては必ずしも歓迎できない生き物もまた活動的になってきました。今月は夏の季語となっている「嫌われもの」を並べてみます。

俳句においては植物以外が動物です。毛物(獣)だけでなく、虫や魚、爬虫類両生類など、すべての命をもって動く物をさします。さてあなたは何が「嫌い」ですか?

たとえば〈孑孒(ぼうふら)〉。ご存知〈蚊〉の幼虫です。近年ジカ熱、デング熱と次々に耳慣れない感染症の存在を知ることとなりました。

孑孒の地蔵の水の他知らず     山尾玉藻

蚊が一つまつすぐ耳へ来つつあり  篠原 梵

私も主婦の顔をしているときは見つけたら即座に水ごとひっくりかえします。が、ひとたび句帳を手にするとその繰り返される上下運動をうっとり見つめてしまいます。孑孒は俳人好み? と思えるほど例句も多いです。

一方句帳を持っているときでも、絶対に許せないのがこれでしょうか。外でお目にかかったことがないからかもしれません。

ごきぶりを打ち損じたる余力かな  能村登四郎

〈蚤(のみ)〉〈虱(しらみ)〉は、現代では縁の薄いものとなりましたが、『おくのほそ道』のこの句は不滅です。

蚤虱馬の尿する枕もと  芭蕉

できれば書物の中だけで、と願います。書物といえば〈紙魚(しみ)〉も夏の季語です。古い書物を開いたときに走り出てくる銀色の虫です。〈雲母虫(きらら)〉とも呼ばれます。

ひもとける金槐集のきらゝかな   山口青邨

本来益虫でありながら、不気味に思われることの多い〈蜘蛛〉も、その散り方が比喩になっている〈蜘蛛の子〉や〈蜘蛛の囲/巣〉とともに、夏の季語です。

蜘蛛多芸なり逆上り尻上り      大橋敦子

蜘蛛の子のみな足もちて散りにけり  富安風生

蜘蛛の囲の向う団地の正午なり    永島靖子

土を肥やしてくれる有り難い生き物ながら、あまり好かれていない〈蚯蚓(みみず)〉も夏です。

前世は竜でありしと蚯蚓言ふ  高田風人子

土の中から、桃色のつやつやした蚯蚓が勢いよく飛び出してくると、私は嬉しくなります。ちなみに〈蚯蚓鳴く〉という〈秋〉の季語もあります。もちろん蚯蚓は鳴きません。が、引き合いに出されるくらいですから、蚯蚓もまた俳人好みなのかもしれません。

蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ  川端茅舎〈秋〉

 (正子)

 

今月の季語(四月) 霞と朧

kasumi-oboro寒暖の差が激しいこのごろです。が、どれほど冷え込む日があっても、身のまわりは確実にパステルカラーの色調になってきていて、春を実感させられます。

パステルカラーであるのは、草木の芽吹きや咲き出す花々の淡い色あいにもよりますが、大気中の水蒸気や埃によって見通しが「悪く」なるからでもありましょう。〈霾〉〈黄砂降る/来る〉〈春塵〉〈春埃〉と並べたてると目が痒くなりそうですが、〈霞〉〈朧〉と言えばたちまち風情が生まれます。

六甲も街もにびいろ黄砂来る   小川濤美子

春塵の衢落第を告げに行く     大野林火

霞む日の夫婦一男一女連れ   廣瀬直人

辛崎の松は花より朧にて        芭蕉

ところで〈霞〉と〈朧〉の違いは整理できていますか? ときどき自然現象を霞、情緒的な状況を朧のように捉えているようなケースを見ますが、そういう違いではありません。同じ現象を昼は霞、夜は朧と呼びます。

ですから上の句の「夫婦」と「一男一女」は日の下を歩いていますし、芭蕉は夜の「松」をめでています。昼夜を意識して詠み、かつ読み取りましょう。

朧にて寝ることさへやなつかしき     森澄雄

のように「寝る」など夜を示す語があるときはまず問題なく読み取れるでしょう。

引いてやる子の手のぬくき朧かな  中村汀女

はどうでしょう。子を連れているのだから昼間、と決めてかかったりすると読み違えます。まず〈朧〉だから夜です。そうすると暗い中を子の手を引いている、主に触覚の句だということがわかります。幼い子は眠くなると手足が温かくなります。もう眠いわね、と子の手をとる母の姿と、眠くて朦朧とした子の表情が見えて来ませんか? 「引いてやる」の「やる」も生きてきますし、手から手へ伝わるぬくみもひとしお愛おしいものに思われます。

朧の傍題として〈草朧〉〈谷朧〉〈花朧〉……といろいろな朧が並んでいますが、すべて夜の景です。

草深くなりたる家の朧かな         鷲谷七菜子

どんな死となるやらわが身の末おぼろ  倉橋羊村

草朧夜明けの匂ひして来たり       金久美智子

天地人この世のおぼろ花おぼろ      黒田杏子

また趣は変わりますが、昼夜を間違えやすい例として〈花明り〉も挙げておきましょう。〈花明り〉は満開の桜が闇の中でもほのかに明るく見えることを指します。

乱声(らんじょう)や花明りなみなみとあり   安西 篤

空中の浮遊物が失せ、クリアに見通せる季節の到来が心から待たれる昨今の私ではありますが、ものは言いよう、気はもちよう、輪郭の定かならざる情緒を今だけのものとして楽しみたいものです。(正子)

 

今月の季語(3月) 春眠

asaneいつもお雛さまのころに風邪をひくなあ、と思うようになったのは、いつのころでしたか……、子どもにはひかさぬように、とも思っていた気がするので、それが正しければかれこれ四半世紀前のことになります。必ず伴う強烈な眠気は、子育て中の睡眠不足と鼻づまりによるものと思い込んでいましたが、今から思えば風邪のような症状はおそらく花粉症の前哨戦。眠気は処方されていた薬によるものでもあったようです。

春眠といふ恍惚のかたちあり   仁平 勝

眠気に身を任せることができれば、恍惚のかたちになれるはず……と思ったからかどうか、この句を読んだとき、作者自身は春眠から疎外されているのではないかと感じました。傍らにすやすや眠る誰か(何か)を見つめながら、私もこんなふうに眠りたい、と。

もちろん唐の孟浩然の詩「春眠暁を覚えず 処々啼鳥を聴く」さながらに、何度も夢に引き込まれる作者自身の姿と受けとめてもよいのです。読み手次第、また同じ読み手でもそのときの状況次第で、いかようにも読み得るのが俳句なのですから。

春眠の大き国よりかへりきし   森 澄雄

帰ってきてしまったなあ、あーあ、という句でしょう。眠りの中でいかに幸福に過ごしたかを感じさせられます。

そういう春の眠りの中にみる夢が〈春の夢〉。これも季語です。

母若し春あけぼのの夢の奥    髙田 正子

拙作で恐縮ですが、夢から覚めて驚いてできた句です。夢の中で、先年亡くなった母とわーわー話しながら歩いていたのです。人は最期には歩けなくなり、話せなくなります。母にもう一度歩けるようになって欲しかったし、なにより、大きな声で話をしてみたかったのだなあ、と夢に知らされたことでした。

こうしてみると〈春眠〉も〈春の夢〉も現実と対照をなすもののようです。

毎日の朝寝とがむる人もなし   松本たかし

〈朝寝〉も春の季語です。「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」ではありませんが、叶わないからこそ価値があるものなのかもしれません。

よき旅をしたる思ひの朝寝かな  村越化石

作者はハンセン病により不自由な暮らしを強いられた人です。朝寝に適ったおおらかな詠みぶりの中に、哀しみが漂います。

春愁や独りと孤独とは違ふ    田畑美穂女

春なればこその愁いも季語となっています。独り愁うのは独りの特権ですから、放っておいてもらいたいですが、独りと孤独は表裏とも紙一重とも言えそうな関係ですから、傍目にはなかなか難しいところかもしれません。(髙田正子)

今月の季語(2月) 鳥帰る

000春です。昨今では雪に不慣れな地域が大雪に戸惑う時期にもなりました。秋冬に日本へ渡ってきて冬を越した鳥が、次々に北へ戻っていく季節の到来です。

〈引鴨〉〈帰雁〉という季語が示すように、種類ごとに群れをつくって帰って行きます。

引鴨や光も波もこまやかに     津田清子

美しき帰雁の空も束の間に     星野立子

このときの「引」と「帰」は同義です。名詞だけでなく動詞の形で使うこともあります。

白鳥の引きし茂吉の山河かな   片山由美子

帰る時期が近づくと渡りの練習のような行動を取り始めます。呼び交わす声や振る舞いから、その土地に住む人は「今夜だな」と察するのだそうです。一夜明けたら池がからっぽ、なんていうことがあるのかもしれません。

こうした大型の鳥のほか、鶫(つぐみ)や鶸(ひわ)など小型の鳥も帰ります。それらをまとめて〈鳥帰る〉といいます。

鳥帰る無辺の光追ひながら      佐藤鬼房

〈鳥帰る〉と同じ内容の季語に〈鳥雲に入る〉があります。鳥が帰っていくとき、雲間に入って姿が消えるように見える、感じるということを表しています。

鳥雲に入るおほかたは常の景     原 裕

略して〈鳥雲に〉ともいいます。

鳥雲に娘はトルストイなど読めり   山口青邨

子の書架に黒きは聖書鳥雲に    安住 敦

子の思いがけぬ成長に、遠まなざしになっている父親の姿が目に浮かびます。見えていたはずの姿をいつまでも追いかけるのは親の宿命とも言えましょうが、同じ趣旨で詠んでいるのが、ともに父親であることが興味深いです。〈鳥雲に〉は〈鳥帰る〉と同義ですから、本物の鳥が帰っていくことを表すのですが、抽象的、比喩的な意味合いをもたせて使うことも可能なようです。

帰る鳥がいる一方、残る鳥もいます。傷ついたり、病気になったりして群れに加わることのできなくなった鳥です。〈残る鴨〉〈残る雁〉などといいます。

蹼(みずかき)を見てゐる鴨よ残りけり  三橋敏雄

残りしか残されゐしか春の鴨       岡本 眸

〈春の鴨〉という場合は、これから帰る鴨も含み、必ずしも残ってしまった鴨とは限りません。また、渡りをしないカルガモのような鴨は、残る鴨とはいいません。

帰るものが帰ってしまうと、天地は〈春の鳥〉〈春禽〉に満たされていきます。鳴き声にも変化が起き、〈囀り〉が高まります。例えば〈鶯〉のホーホケキョのように。そして〈鳥の恋〉が実り、〈鳥の巣〉では新しい命が誕生します。

わが墓を止り木とせよ春の鳥    中村苑子

囀りをこぼさじと抱く大樹かな   星野立子

囀に色あらば今瑠璃色に      西村和子

太陽は古くて立派鳥の恋      池田澄子

鳥の巣に鳥が入つてゆくところ   波多野爽波

やがて〈燕〉もやって来るでしょう。

渡り来て秩父も奥のつばくらめ   石塚友二

歳時記を携え、鳥の世界の入れ替わりを見届けに出かけませんか?  (正子)

今月の季語(一月) 七草

nanakusa東京墨田区の向島百花園では、七草籠作りが歳末の風物詩となっています。宮中に献上する籠も作られているとのこと。同じものが園内に飾られていますが、白砂を溢れるほど敷いた立派な仕立てです。来園者向けの七草籠講座も開かれていて、何気なく訪れてちょうどその集まりに紛れ込むことができた年もあります。

注連飾と同じ理屈で、七草籠作りは歳末の季語ですが、七草籠そのものは新年の季語となります。

「七草」は「七種(ななくさ)」と書くこともあります。五節句の一つ「七種の節句」を略したものととらえれば行事の季語、正月七日に食べる粥ととらえれば生活の季語、その粥に入れる七種類の「若菜」ととらえれば植物の季語となります。

七種の過ぎたる加賀に遊びけり  深見けん二

濤音の七草粥を吹きにけり          飯島晴子

七種の余りは鳥に返しけり     いのうえかつこ

若菜摘海の方へも行きにけり    藤田あけ烏

 

百人一首にも選ばれている、

君がため春の野に出でて若菜つむわが衣手に雪は降りつつ 光孝天皇「古今集」

のように、本来、若菜は野に出て摘むものでした。今では八百屋やスーパーの店頭に七種がセットされたパックが山積みになりますし、乾燥七草や、レトルト仕様の七草粥もあって、かなりお手軽になりました。が、こうした需要があるというところに、面倒でも切り捨ててしまうことができず、簡略な形にしてでも続けようという日本人魂を感じますが、いかがでしょうか。

さて、その七種類の若菜は、地域や家庭によっても異なるでしょうが、オーソドックスなラインナップは、芹、、薺(なずな)、御形(ごぎょう、おぎょう)、繁縷(はこべら)、仏の座、菘(すずな)、蘿蔔(すずしろ)です。菘、蘿蔔以外は、普段は〈春〉の季語、七草粥に入れるときは〈新年〉の季語となります。菘と蘿蔔は、蕪、大根と呼ぶときは〈冬〉の季語です。

芹:春の七草としての呼び名に、根白草(ねじろぐさ)もあります。

水うまき国の夕べの根白草  伊藤通明

 

薺:〈七種打つ〉とは粥に入れるために若菜を刻むことですが、同じ意味で〈薺打つ〉〈薺はやす〉といいます。また七種粥のことを薺粥とも呼びます。薺は七種の代表なのかもしれません。

千枚田より摘みきたる薺なる   斎藤梅子

はづかしき朝寝の薺はやしけり 高橋淡路女

よくみれば薺花さく垣ねかな   芭蕉〈春〉

 

御形:母子草のこと。

御形摘む大和島根を膝に敷き   八田木枯

老いて尚なつかしき名の母子草  高浜虚子〈春〉

 

繁縷:はこべのこと。

はこべらや焦土の色の雀ども  石田波郷〈春〉

 

仏の座:コオニタビラコのこと。

日のひかりひとときとどき仏の座  山口 速

 

菘:蕪のこと。

早池峰の日のゆきわたる菘かな  菅原多つを

大鍋に煮くづれ甘きかぶらかな   河東碧梧桐〈冬〉

 

蘿蔔:大根のこと。

すずしろと書けば七草らしきかな  井沢 修

流れ行く大根の葉の早さかな     高浜虚子〈冬〉

七草粥は万病を除くそうです。自ら七種摘み揃えれば、効果絶大かもしれません。(髙田正子)

今月の季語(十二月) 暖房

danbouあかあかと熾りたる火や冬座敷 久保田万太郎

夏に〈夏座敷〉という季語があるのと同じように、〈冬座敷〉という冬の季語があります。一言で言うと、冬用のしつらえを施した座敷のことです。〈襖〉〈障子〉〈屏風〉などの障壁具を使って風を防ぎ、暖房設備で室内の気温を調節します。

「座敷」ですから、家族の居る部屋ではなく客間でしょう。この「火」は客をもてなすための火です。〈火鉢〉の〈炭火〉でしょうか。部屋中あまねく暖められるほどの火力ではありませんが、あかあかといかにも暖かそうです。色や匂いで感じ取る暖かさもあったに違いありません。

暖房をつけて仕事をもう少し    片山由美子

〈暖房〉そのものも冬の季語です。文字通り部屋を暖めることですから、すべての種類の暖房に使用することができます。が、ストーブであれば「ストーブをつける」と言うでしょうし、火鉢であれば「炭をつぐ」、暖炉には「火を入れる、かきたてる」と言いそうですから、この句の作者は冷えて来た夜更けにエアコンのスイッチを入れたのかもしれません。

金沢のしぐれをおもふ火鉢かな   室生犀星

松笠の真赤にもゆる囲炉裏かな   村上鬼城

今では〈火鉢〉も〈囲炉裏〉も、日常品というより展示品であり、観光用、イベント用の他には知らない人のほうが多いでしょう。ですが、傍らに寄るとそのままずっと蹲っていたくなります。その気分は、ふるさとに思いを馳せている犀星の心情に通じるようにも思います。

炬燵の間母中心に父もあり     星野立子

父も来て二度の紅茶や暖炉燃ゆ   水原秋櫻子

ふたりの「父」の様子を想像すると、和室の〈炬燵〉、洋室の〈暖炉〉という以上の違いがありそうです。

ストーブの中の炎が飛んでをり   上野 泰

ストーブを蹴飛ばさぬやう愛し合ふ 櫂 未知子

〈ストーブ〉はまだまだ健在でしょう。炎の飛ぶタイプは少数派になりつつありますが、俳句に詠まれるストーブは火の見えるものが多い気がします。

風を屏(ふせ)ぐ〈屏風〉〈障子〉〈襖〉はすべて冬の季語です。

今消ゆる夕日をどつと屏風かな  山口青邨

一枚の障子明りに伎芸天     稲畑汀子

星空を戻れば白き襖かな     鴇田智哉

屏風や襖は装飾性が濃いですが、障子はむしろ消耗品で、毎年貼り替えます。その仕事を指して〈障子貼る〉〈障子洗ふ〉と言い、こちらは秋の季語です。

今日では、年越しの準備として障子を貼り替えもしますから、秋の季語と聞いて意外に思う方もおられるでしょう。が、もともとは冬支度の一つとして行う作業でした。冬を迎える支度をする季節、つまり晩秋の季語なのです。

湖へ倒して障子洗ひをり     大橋桜坡子〈秋〉

使ふ部屋使はざる部屋障子貼る  大橋敦子 〈秋〉

桜坡子と敦子は父と娘の関係です。時を隔てて、同じ家の障子を詠んだものかもしれません。冬座敷に関わる季語は、「家」を思わせます。家の磁力が弱くなってきている昨今、存続の危うい季語なのかもしれません。(正子)

今月の季語〈十一月〉 「冬」のつく花

huyuzakura木枯(こがらし)は文字通り木を枯らす風。凩とも書きます。そんな風の季節となりました。

地上の彩りは概ね〈木の葉〉とともに吹き払われていきます。が、そうした中にも咲き留まっている花、あらたに咲き出す花があります。今月は「冬」という文字のつく花を中心にみていきましょう。

まず冬の薔薇。俳句で〈冬薔薇〉というとき、温室で立派に咲いた薔薇ではなく〈冬枯〉の中にぽつりと咲き出した花を指します。枝葉がさびしいので枝先に小さな花だけが浮かんでいるようにも見えます。また、せっかく莟を立てても、寒さのために咲かずに終わることもあります。

冬ばらの蕾の日数重ねをり     星野立子

冬の薔薇すさまじきまで向うむき  加藤楸邨

ちなみに本来の薔薇は夏の花です。一方、冬に咲く品種ゆえ「冬○○」と呼ばれるものもあります。

たとえば〈冬桜〉。十一月から一月のころ花期を迎える桜です。花は小ぶりで、白の一重咲きです。

はなびらの小皺尊し冬ざくら  三橋敏雄

冬桜は、春に爛漫と咲き誇る桜とは別ものです。桜はこの時期には枯木となっています。あたたかな日には〈返り花〉と呼ばれる季節はずれの狂い花をつけることがありますが、花時は次の春を待たなければなりません。ただ、裸木となってもそれと分かる木の姿を愛で、〈冬木の桜〉と呼ぶことがあります。

真青な葉も二三枚返り花      高野素十

世は夢の冬木の桜しだれけり  向田貴子

「冬」が文字の中にある柊の花期はその名のとおり冬です。ぎざぎざの葉のほうが印象に残る植物ですが、木犀に似た芳香を放つ小さな白い花を咲かせます。〈柊の花〉もしくは咲いていることがわかるように詠んで季語となります。

柊のたそがれの香にほかならず    岩井英雅

ひひらぎの花まつすぐにこぼれけり  髙田正子

今年はすでに仲秋のころから咲き出して驚きましたが〈山茶花〉は冬の花です。〈茶の花〉〈石蕗の花〉〈水仙〉など冬を選んで咲く花は派手でこそありませんが、佇まいが凜としているように思います。

春にさきがけて咲く花や、花期を調節して冬に咲かせる花に「冬」の文字を冠することもあります。

〈牡丹〉は本来初夏の花ですが、芽を摘み取って花期を遅らせ、真冬に咲かせるのが〈冬牡丹〉〈寒牡丹〉です。藁で苞を作って被せ、根元には敷き藁を施して寒さから守ります。

ひうひうと風は空ゆく冬ぼたん   鬼貫

よろこびはかなしみに似し冬牡丹  山口青邨

しんかんとあめつちはあり寒牡丹  安住 敦

〈冬菫〉は、品種にかかわらず、春にさきがけて咲き出した菫のことです。日当たりがよく、風の通りにくい場所に見かけることがあります。

山一つあたためてゐる冬すみれ  神蔵 器

同じ「冬○○」の呼び名を持っていても、花によってそれぞれ事情が異なります。どの花にも言えることは、冬の厳しさに耐えるけなげさ、かもしれません。(正子)

今月の季語(十月) 秋の田

inekari北関東、東北の洪水は酷いことでした。人の命に関わる一切については申すまでもないことですが、収穫を間近にひかえた田畑が水に巻かれてゆくさまには心が痛みました。

濃尾平野で生まれた私の原風景は、真ん中に田があります。長梅雨や台風のときには、通学路である田中の道がしばしば水没し、かろうじて頭を出している草の葉先で道と田の境目を判断したものでした。

立春から数えて二百十日目は、昔から激しい風雨にみまわれる日として忌まれてきました。新暦では九月の初めにあたります。近頃では梅雨時に台風が到来したりもしますが、台風のマークが天気図の常連となり、そのルートがたえず懸念されるのはやはりこの頃からです。

ころがして二百十日の赤ん坊    坪内稔典

釘箱の釘みな錆びて厄日なる    福永耕二

〈二百十日〉を忌んだのは、〈早稲〉の花が咲くころであったからといいます。農家は〈稲の花〉を散らす大風を恐れたのです。〈二百二十日〉は〈中稲〉、〈二百三十日〉は〈晩稲〉の開花期にあたり、同様に恐れられました。今では開花の時期をずらせるようになったそうですが、台風が心配の種であることに変わりはありません。

空へゆく階段のなし稲の花     田中裕明

早稲の香や分け入る右は有磯海   芭蕉

貌暮れて刈り残したる晩稲かな   棚山波朗

無事に花が咲き、稔りのときを迎えた田を〈秋の田〉〈稲田〉等と呼びます。

秋の田へぐらりと日本海の蒼    宇咲冬男

木曾谷の深し稲田を積み重ね    守屋井蛙

稔った稲を守るため〈案山子〉〈鳴子〉〈鳥威し〉などが用いられます。これらは〈稲雀〉を脅すためのものです。雀の数の激減が報告される昨今では、脅す気合をそがれることもあるのでしょうか。

みちのくのつたなきさがの案山子かな  山口青邨

引かで鳴る夜の鳴子の淋しさよ     夏目漱石

鳥威きらきらと家古りてゆく      波多野爽波

稔りの時期に田が水浸くと、穂についたまま米が発芽し、用途にそわなくなります。米は米粒という認識でいても済んでしまう現代ですが、米が稲という植物の実であることを、こんなことからも実感します。

〈稲刈〉の済んだ田を〈刈田〉と呼びます。刈株はいわば黄金色をしていますが、しばらくすると青い芽が出て来ます。これを〈穭〉と言い、穭の出た田を〈穭田〉と呼びます。早稲田に出る穭には穂が出て稔ります(渡り鳥の糧となります)。暖冬のせいか、中稲晩稲の田の穭にも穂が出ていることがあります。品種改良と気候の変化によって、田の様子はこの先ますます変わっていくのかもしれません。

稲刈つて鳥入れかはる甲斐の空     福田甲子雄

去るほどにうちひらきたる刈田かな   鬼貫

穭田は人通らねば泣きに来し      高野素十

今では機械化が進み、刈り取りながら脱穀し、実以外の部分(つまり藁になる部分)を束ねるところまでを同時に行えるようになりました。一家どころか一門総出の手作業で、稲を刈って干して扱(こ)いて摺(す)っていた昔とは異なり、ひとりで黙々と作業が進んでいきます。いろいろな意味で「変化」する田を、自身の目で確かめに行ってはいかがでしょう。(正子)