今月の季語(十一月) 水鳥
「渡り鳥」は秋の季語ですが、鳥の渡りは冬になっても続きます。鳥の名前を季語として使うときは、種類によって秋だったり冬だったりしますが、それは渡りの時期によることが多いのです。
雁鳴くやひとつ机に兄いもと 安住 敦〈秋〉
白鳥の声のなかなる入日かな 桂 信子〈冬〉
「初鴨」「鴨渡る」は秋の季語ですが、「鴨」は冬です。鴨はさきがけて秋に渡って来る冬の鳥として認識されてきたのでしょう。
「雁」は秋の季語です。冬になっても居ますが、「冬の雁」と呼んで冬の季語になります。鳴きながら飛来する秋の「雁」と、棲みついた「冬の雁」ということでしょうか。
やや冷えて鴨待つ水のひろさかな 鷲谷七菜子〈秋〉
日のあたるところがほぐれ鴨の陣 飴山 實〈冬〉
冬の雁二三羽とほき田へ移る 永方裕子〈冬〉
冬の水上にいる鳥を総称して「水鳥」「浮寝鳥」といい、これらは三冬(初冬、仲冬、晩冬)通して使えます。
鳥どもも寝入つてゐるか余吾の海 路通
路通は芭蕉の弟子です。この句では単に「鳥」と詠んでいますが、現代の有季定型句ならば「水鳥」とするかもしれません。ですが、上五を単純に置きかえてみると、「鳥ども」に対する親近感のような感情が失われてしまうことに気づきます。この句のよさは、水に浮いて寝入っているらしき鳥に、限りなく心を寄せていくところにあるのでしょう。
水鳥のおもたく見えて浮きにけり 鬼貫
水鳥の巴になりて狂ひけり 暁台
ともに江戸時代の句ですが、現代の感覚で十分読み取れる水鳥の姿を詠んでいます。
水に浮いたまま眠る姿を指して「浮寝鳥」といいますが、和歌では「憂き寝」をかけて恋の独り寝の心もとなさを詠みました。俳諧のルーツは和歌にあり、和歌で使った語を俳諧でも使っているのですが、そのまま雅語として踏襲するのではなく、どこかに価値の転換をはかった跡があります。路通の「鳥」も寝入っている水鳥ですから「浮寝鳥」を指しますが、恋とはかけ離れた位置に浮いています。
現代では、敢えて価値の転換をはかる意識は薄くなってきていますが、本意を踏まえつつも、先行例に縛られすぎないことが、今を生きる他ならぬ自分自身の句を詠むための鍵になるかもしれません。
この旅の思ひ出波の浮寝鳥 星野立子
浮寝鳥ほどの寧けさ ありやなしや 伊丹三樹彦 (正子)