今月の季語(3月) 春眠
いつもお雛さまのころに風邪をひくなあ、と思うようになったのは、いつのころでしたか……、子どもにはひかさぬように、とも思っていた気がするので、それが正しければかれこれ四半世紀前のことになります。必ず伴う強烈な眠気は、子育て中の睡眠不足と鼻づまりによるものと思い込んでいましたが、今から思えば風邪のような症状はおそらく花粉症の前哨戦。眠気は処方されていた薬によるものでもあったようです。
春眠といふ恍惚のかたちあり 仁平 勝
眠気に身を任せることができれば、恍惚のかたちになれるはず……と思ったからかどうか、この句を読んだとき、作者自身は春眠から疎外されているのではないかと感じました。傍らにすやすや眠る誰か(何か)を見つめながら、私もこんなふうに眠りたい、と。
もちろん唐の孟浩然の詩「春眠暁を覚えず 処々啼鳥を聴く」さながらに、何度も夢に引き込まれる作者自身の姿と受けとめてもよいのです。読み手次第、また同じ読み手でもそのときの状況次第で、いかようにも読み得るのが俳句なのですから。
春眠の大き国よりかへりきし 森 澄雄
帰ってきてしまったなあ、あーあ、という句でしょう。眠りの中でいかに幸福に過ごしたかを感じさせられます。
そういう春の眠りの中にみる夢が〈春の夢〉。これも季語です。
母若し春あけぼのの夢の奥 髙田 正子
拙作で恐縮ですが、夢から覚めて驚いてできた句です。夢の中で、先年亡くなった母とわーわー話しながら歩いていたのです。人は最期には歩けなくなり、話せなくなります。母にもう一度歩けるようになって欲しかったし、なにより、大きな声で話をしてみたかったのだなあ、と夢に知らされたことでした。
こうしてみると〈春眠〉も〈春の夢〉も現実と対照をなすもののようです。
毎日の朝寝とがむる人もなし 松本たかし
〈朝寝〉も春の季語です。「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」ではありませんが、叶わないからこそ価値があるものなのかもしれません。
よき旅をしたる思ひの朝寝かな 村越化石
作者はハンセン病により不自由な暮らしを強いられた人です。朝寝に適ったおおらかな詠みぶりの中に、哀しみが漂います。
春愁や独りと孤独とは違ふ 田畑美穂女
春なればこその愁いも季語となっています。独り愁うのは独りの特権ですから、放っておいてもらいたいですが、独りと孤独は表裏とも紙一重とも言えそうな関係ですから、傍目にはなかなか難しいところかもしれません。(髙田正子)