今月の季語(6月) 蛍
桜と同じように、蛍にも蛍前線があります。例えば私は、岐阜の美濃地方に生まれ、東京、大阪、神奈川と移り住みましたが、そのあたりの人にとっては蛍は六月のものかと思います。今年は四月に、沖縄で蛍が飛び始めたというニュースを耳にしました。暖冬の影響で全国的に早まっているそうですが、さて今年の蛍前線が身辺に到達するのは、いつになるでしょうか。
草の葉を落つるより飛ぶ蛍かな 芭蕉
葉先より指に梳きとる蛍かな 長谷川 櫂
前句は、雫のように草の葉を伝い、こぼれるかと見えてすうーっと上昇する光を描いています。後句は、髪をくしけずるときに使う動詞「梳く」の効果で、葉の形状や、手指の動きが見えてきます。草の葉と蛍を前の句は視覚で、後の句は触覚でとらえているとも言えそうです。芭蕉に関する著作の多い長谷川氏ですから、芭蕉への挨拶の句であるかもしれません。
追はれては月にかくるるほたるかな 蓼太
ほうたるの月に触れしは落ちにけり 岸田稚魚
雨蛍消えしところにぽとともる 野澤節子
蛍が光るのは雌へのアピールのためですから、光が相殺される月明の夜はあまり飛ばないと言われます。私の経験によりますと、明滅しながら月を横切る蛍は、「翅のある虫」のシルエットを呈しますが、光るお尻は目立ちませんでした。また大雨の日も飛びません。第三句はごく小雨、もしくは小止みになったときを思えばよさそうです。
蛍得て少年の指みどりなり 山口誓子
ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜 桂 信子
人殺す我かも知らず飛ぶ蛍 前田普羅
自然の景物との取り合わせはもとより、「人」との取り合わせ、というより人を描くために詠まれることも多いです。第一句は少年を、第二、三句は作者自身を描いています。第一句は淡淡としているようでいて、少年のものだからこそ指が「みどり」なのだとも読み取れそうです。間接的に、すでに少年ではない作者自身が見えてくる気がしますがどうでしょうか。
蛍火の明滅滅の深かりき 細見綾子
ほたる火の冷たさをこそ火と言はめ 能村登四郎
明滅の滅のほうに心惹かれる綾子、冷たさに激しさを感じている登四郎。蛍火を詠みつつ、自身の心情を訴えてきませんか。
寝るまへの蛍に水をあたへけり 安住 敦
蛍籠昏ければ揺り炎えたたす 橋本多佳子
どちらも捕えられた蛍ですが、敦の蛍は家族の一員のよう。その日妻子と螢狩に出かけたのではないでしょうか。多佳子の蛍はどやされています。「もっと恋せよ」と言われているのでしょうか。ちなみに〈蛍〉は歳時記の「動物」の章にある季語ですが〈蛍狩〉や〈蛍籠〉は、人による営みですから生活の季語となります。
生霊か蛍か闇を飛び交ふは 中村苑子
病み抜いて母は蛍となりにけり 井上弘美
蛍の夜老い放題に老いんとす 飯島晴子
おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太
日本の詩歌には〈もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る 和泉式部〉のように、蛍を魂とみる伝統があります。苑子の句は王朝の香りもしますし、まっすぐにそれを踏まえたものと言えましょう。弘美は、寝たきりになってしまった「母」を詠んでいます。たくさんの管や計器につながれながら命を維持している母でしょうか。この二句の蛍=命は凄絶ながらこの世のものです。晴子は蛍火の明滅の中で「老いん」と言っています。後に自死する人であることを私たちは知ってしまっていますが、それを思うと何か能の世界のようにも感じられてきます。兜太の蛍もやはり命でありましょう。おおかみは日本では絶滅してしまった獣としての狼であるとともに、兜太のうぶすな秩父の守り神=大神です。そこに明滅するのは戦場で散った命であり、両親をはじめ自分の命につながる多くの命、まさにうぶすなそのものであるかもしれません。(正子)