今月の季語(7月) 涼し
「今日は涼しいですね」という挨拶は、気温がそれほど高くなく、湿度も低めのときに交わす夏の挨拶でしょう。「涼しくなりましたね」は、快感を覚えるところまで気温が下がったという意味あいですから、現代ならば秋も随分進んでから「やっと」を付けて交わしそうな挨拶です。秋の季語である〈新涼〉はまさにこの感覚でしょう。
夏の季語としての〈涼し〉は、これらの挨拶と同様に心地良さを表していますが、気温や湿度という数字に左右されるものではありません。歳時記の解説にも「思いがけず覚えた涼しさ」とあり、その涼感が相対的なものであることを示しています。
このあたり目に見ゆるもの皆涼し 芭蕉
涼しさを絵にうつしけり嵯峨の竹 同
は、主として視覚的な涼しさを詠んでいると言えましょう。
涼しさや鐘をはなるるかねの声 蕪村
は、聴覚の涼しさでしょう。
大の字に寝て涼しさよ淋しさよ 一茶
は、触覚でしょう。ですが一茶は、窮屈な雑魚寝でないことが「淋しさ」を呼ぶと言っています。一茶は時代としては近世の人ですが、近代的と言われる所以はこういうところにもあるのかもしれません。
をみな等も涼しきときは遠を見る 中村草田男
この句の涼しさは、まずは身体で感じ取ったものでしょう。そして日頃は自分と異なる生物体だと思っている「をみな等」も、このときばかりは同じことをするではないか、という発見というか驚きというか、を言っているのではないでしょうか。草田男は「をみな等」が実はちょっと怖かったのではないでしょうか。
どの子にも涼しく風の吹く日かな 飯田龍太
子等へ等しく向けられる慈愛のまなざし、と読まれる句です。そうなのだと思います。が、母を亡くした直後(父=蛇笏は既に)の句と知ったときから、このとき龍太自身に風はどう吹いていたのだろうと思うようになりました。どこかさびしさ(それが涼しさなのかもしれません)を感じるのですが、皆さまはいかがですか?
言葉待ちつつ涼しさの中にゐる 廣瀬直人
直人は龍太の弟子です。「雲母」終刊ののち、後継誌として「白露」を創刊主宰しました。このとき師の傍らに侍っていたのでは、という想像も可能でしょう。この涼しさは、身体以上に心が喜ぶ涼しさでしょう。
五千冊売つて涼しき書斎かな 長谷川櫂
本を処分するのは理由に拘わらず心が痛みます。それでもスペースは有限ですから、苦渋の決断を強いられるのです。この涼しさは、選別という暑苦しい作業を経て得たすがすがしさでしょう。実際に風通しも良くなったに違いありませんが。
すずしさのいづこに坐りても一人 藺草慶子
この「一人」にはご自身が独身であるという意識が作用しているように思えます。身軽であるよろしさと、親を送ったのちには本当に一人になってしまうという心許なさと。一茶の涼しさと近いかもしれません。家族はいたらいたで暑いですが、いないと涼しくて……なのかもしれません。
風生と死の話して涼しさよ 高浜虚子
話している内にすーすーしてきたのでしょうか。達観したお二人とお見受けしますが。
なにしろ実体がありませんから、何にでも合わせられます季語です。それは危うさでもありますが、「身体」何割「心」何割と調合できる自在さが魅力的とも言えそうです。(正子)