今月の季語(八月)花火
現代の歳時記では〈花火〉は夏の季語となっていることのほうが多いですが、近世以来の倣いで今もなお秋に分類している歳時記もあります。例えば隅田川の花火大会は七月の終わりですが、手花火も含めて〈八月〉(=秋)のイメージが強い行事であることを思うと、納得できない感覚ではありません。〈花火〉は夏とも秋とも言い難い、ゆきあいの季節の季語と言えるかもしれません。
〈花火〉は生活の季語です。揚花火、手花火等、種類にはこだわらず、生活の主体である人の行動や心理に焦点を合わせて見ていきましょう。
暗く暑く大群衆と花火待つ 西東三鬼
歳時記の例句によくあがっています。花火を「待つ」句です。
宿の子を借りて花火を見にゆくも 田中裕明
ひとりで行くのも、と思案していたら「宿の子」と目が合ったのかもしれません。「行くか?」「うん!」 「子」の嬉しさは、作者の心の弾みでもあるでしょう。
花火の夜兄へもすこし粧へり 正木ゆう子
「兄」は最も近い年上の異性です。肉親ですから日頃は素顔で接しているわけですが「花火の夜」だから、という特別感。妹の粧いに、兄もどきっとしたかもしれません。
そしていよいよ花火が揚がり始めると、
ひゆるひゆると花火の玉の昇りゆく 長谷川櫂
ずんずんと土にひびきて大花火 岸本尚毅
前の句は聴覚と視覚の句。後の句は触覚も加わっています。
その次のすこし淋しき花火かな 山田弘子
大輪の花火の中の遠花火 野澤節子
花火より観客の昂揚感が勝ると「淋し」ということにもなるでしょう。後の句は、花火と遠花火が重なり、「あ、あちらでも」と遠いほうに視線が吸い寄せられた瞬間です。
山国の天へ供華なす大花火 鍵和田秞子
死にし人別れし人や遠花火 鈴木真砂女
手向くるに似たりひとりの手花火は 馬場移公子
三句のベースには人恋しさがあります。魂鎮めの句でもありましょう。
大花火悪相もわが顔のうち 石 寒太
花火みる男の帯に手をかけて 吉田汀史
花火に照らし出されているであろう「わが顔」を「悪相」と言い放っています。花火を見ることが、翻って「わが顔」を見る行為となるとは驚きです。花火に見られている、とも言えそうです。後の句は、男が自分の帯に自分の手をかけながら(よくあるポーズですね)とも読み得ますが、女(に違いありません)が傍らの男の帯に、と読むべきでしょう、おそらく。
花火への期待感は待つ間に最高潮に達し、いよいよ揚がり始めると存外たやすく満たされるものなのかもしれません。すると想念が、人魂のように縦横に走り始めます。どんな思いをどのように巡らせるのか、花火の句の真骨頂はおそらくそのあたりにあるのでしょう。
その花火もやがて収束のときを迎えます。
帰らんとすれば花火の又上り 西村和子
花火果て闇の豪奢や人の上 高橋睦郞
そして、くり返し余韻にひたるのです。
ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火
昭和二十二年、林火四十三歳の作。もう焼夷弾におののくことなく、安心して眠ることができるようになった日々の句です。
私たちの多くは花火に対しては観客でしかないので、見る側からの作品が圧倒的に多いですが、花火を作る側に注目した作例もあります。
花火師にまだももいろの信濃川 黒田杏子
またの世は旅の花火師命懸 佐藤鬼房
前の句は前掲の長谷川、岸本両氏と同じ旅で作られています。新潟の花火だったそうです。後の句は、次に生まれて来るときには、という句でしょう。大きな花火大会から町内会の納涼祭まで、また夏のみならず、冬の花火も、と数え上げていったら、「旅の花火師」の「命」はなかなかに値が張りそうです。(正子)