今月の季語〈十二月〉 時雨
〈時雨〉と聞いてとっさに思い出す句は何でしょう。名吟がたくさんありますが、「とっさに」となれば私はこれ、
旅人と我が名よばれん初しぐれ 芭蕉
を挙げます。師系にかかわらずに選べる一句でもありましょう。
この句は、貞享四(一六八七)年十月十一日、其角亭で開かれた送別の句座で詠まれたものです。このとき芭蕉は御年四十四歳。同月二十五日、芭蕉は江戸を発ち、『笈の小文』の行脚に出るのです。この送別会では十一吟の世吉を成したそうですが、それだけであれば、これほど膾炙した句にはなっていなかったかもしれません。紀行文『笈の小文』の冒頭に次の一文とともに置かれたからこそではないでしょうか。
百骸九竅(ひやくがいきうけう)の中に物有。かりに名付て風羅坊といふ。(略)かれ狂句を好こと久し。終に生涯のはかりごととなす。(略)つゐ(つひ)に無能無芸にして只此一筋に繋る。西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一(いつ)なり。(岩波文庫『芭蕉紀行文集』中村俊定校注)
芭蕉は三年前の貞享元年、初めての文学行脚に出たときには〈野ざらしを心に風のしむ身哉〉と詠んでいます。〈野ざらしを〉と〈旅人と〉を読み比べると、まるで別人のようではありませんか。相当な覚悟で臨んだ『野ざらし紀行』の旅で、芭蕉は自信をつけたのでしょう。江戸期の旅ですから、困難極まりないものだったに違いありませんが、不安より期待が勝る、それが『笈の小文』の旅立ちだったと思えてきます。
そのことはまた、季語が〈時雨〉ではなく〈初時雨〉であることも一役買っているでしょう。初花、初桜と同様に、時雨も「初」がつくと華やぎや期待感を表せることがわかります。
後世の俳人たちは、多かれ少なかれ、この句の影響を受けていると言ってもよいと思います。
初時雨これより心定まりぬ 高浜虚子
この道を芭蕉もゆきぬ初時雨 山口青邨
たつぷりと生きよ旅人初しぐれ 黒田杏子
虚子はこのとき心に何か期すところがあったのかもしれません。青邨の句は〈旅人と〉とともに〈此道を行く人なしに秋の暮 芭蕉〉を踏まえているでしょう。杏子の句の旅人は自分、そしてこの世に生きる人々でしょう。「初」の次は本番の時雨が来るわけで、〈時雨るるもよしこれよりのわが旅路 杏子〉はそんな読み方をしても面白いと思います。
しぐれをりコンピューターに億の数 加藤楸邨
意表をつく取り合わせです。画面を忙しなく流れる数字の列を見て、雨脚を連想したのかもしれません。ただコンピューターが更に進化した現在は、むしろ懐古的な気分にもなります。
しぐるるや駅に西口東口 安住 敦
北口南口では対照がはっきりし過ぎてしまったことでしょう。東西は日の出と日の入の方角であるからでしょうか、朝夕という時間の流れを感じさせられもします。
多くの歳時記では〈初時雨〉と〈時雨〉が別の見出しになっています。冬は必ずしも待たれる季節ではないですが、〈初時雨〉の「初」は華やぎ、冬の初め限定の季語なのです。そういう心持ちでもって対してみると、雨の景色が一味違って見えてくるかもしれません。(正子)