今月の季語(5月) 花(3)
今年の桜のシーンを思い返すと、咲きだして、満ちる前くらいのところで記憶が止まっています。花吹雪に存分に打たれることなく、ふと気づくと葉桜に。私だけでなく、多くの方がこんな感じではないでしょうか。無念なので、花吹雪のあたりからおさらいしつつ「夏の」桜へと移行しましょう。
一輪二輪と咲きだす〈初花〉も佳きものですが、〈花万朶〉ののち、いっせいにふぶきだすときの美しさには息を呑みます。
息とめて赤子は落花浴びてをり 加藤楸邨〈春〉
をさなごに永きいちにち花ふぶき 池田澄子〈春〉
「赤子」も「をさなご」も何を思っているのでしょうか。幸福な明るい光を感じます。
空をゆく一かたまりの花吹雪 高野素十〈春〉
きらめきて夜空に湧きし落花かな 藤松遊子〈春〉
素十の句は昼の景でしょう。対して遊子の句は夜の景です。〈花吹雪/桜吹雪〉〈飛花〉〈落花〉は〈散る桜/散る花〉と同義です。ニュアンスの違いを味わいましょう。
大方の桜が散るころに咲きだす桜を〈遅桜〉、まだ散り残っている桜を〈残花〉といいます。晩春の季語です。
一もとの姥子の宿の遅桜 富安風生〈春〉
いつせいに残花といへどふぶきけり 黒田杏子〈春〉
残花とはまだふぶくことができる桜なわけです。対して、
かつらぎのふところ深く余花と会ふ 稲畑汀子〈夏〉
〈余花〉は、はからずも出会うもの。桜の青葉の中に数輪の(たった一輪であることも)花を見出したときには、嬉しいというより、まず驚きます。
葉桜のひと木淋しや堂の前 太祇〈夏〉
葉桜の中の無数の空さわぐ 篠原梵〈夏〉
〈葉桜〉は桜の若葉青葉のこと。「この言葉には場に応じて二つの異なる気持がこもる。もはや葉桜になってしまったと花を惜しむ思いと、桜若葉のすがすがしさを愛でる思い」と長谷川櫂氏が書かれています。(『角川俳句大歳時記』夏)
桜も初夏にはほかの樹木同様、〈新樹〉と呼ぶにふさわしい風貌となります。私の好きな句に、
この新樹楓の花をこぼしたり 山口青邨
があります。この句は句集『露団々』に、
古本の本郷若葉しんしんと 青邨
葉桜や逢うて手を挙げ白々と 青邨
の二句の次に収められています。続けて三句読むと、まずどの木も総じて若葉となったことを告げ、次にこの木は桜だ、こちらは楓だ、と樹木ごとに観察しているように思えてきます。青邨の対象の把握のしかたが興味深い句です。
桜も花のあと実を結びます。多くはえぐみがあって食用には向きませんが、中には食べられるものもあるのだとか。
桜の実紅経てむらさき吾子生る 中村草田男〈夏〉
六月頃に旬を迎える〈さくらんぼ/桜桃の実〉は西洋実桜の果実。
茎右往左往菓子器のさくらんぼ 高浜虚子
幸せのぎゆうぎゆう詰めやさくらんぼ 嶋田麻紀
幸せな日々に、一刻も早く戻りますように。(正子)