〈薄暑〉は初夏、〈極暑〉〈溽暑〉〈炎暑〉は晩夏の季語です。〈暑し〉はこれら一切を合わせた総称です。春の〈暖か〉、秋の〈冷やか〉、冬の〈寒し〉に対する、夏の体感を表す季語です。
手の平にひたひをささへ暑に耐ふる 阿波野青畝
世にも暑にも寡黙をもつて抗しけり 安住 敦
明治生まれの二人です。青畝は打ちひしがれているようであり、敦は憤って真っ赤になっていそうです。「暑」とあるのみですが、「薄」であろうはずはなく「極」や「溽」が籠められていそうです。
電柱の影一本の暑さかな 森川光郎
電柱のほかに影は無いのです。田や畑の中の一本道でしょうか。炎天下と言ってもよさそうな場所を、自分の影を曳きながら歩いて行くさまを思います。
暑きゆえものをきちんと並べをる 細見綾子
暑に耐へて話の筋は通すべく 三村純也
こちらは姿勢の正しい二人です。心頭滅却せよと喝を入れられる心持ち。そうしなければ負けてしまうほどの暑さでもあるのです。
マヨネーズおろおろ出づる暑さかな 小川軽舟
対してこちらは、もうどうしようもないよ~と両手を挙げているような句。作者自身は筋金入りのビジネスマンですが、敢えて掛金を外したような詠みぶりが面白いです。
あれほどの暑さのこともすぐ忘れ 深見けん二
喉元過ぎれば、ではありませんが、忘れたい体感は過ぎてしまうと忘れるものかもしれません。けん二も、我ながら現金と思っていそうです。
そうした最中なればこそ、ふとした折に覚える涼しさに身も心も生き返る心地となります。〈涼し〉は〈暑し〉ゆえに生きる季語です。
此あたり目に見ゆるものはみな涼し 芭蕉
涼しさや鐘をはなるるかねの声 蕪村
皮膚で感じるだけでなく、視覚や聴覚で捉える涼しさもあります。
一筋の涼しき風を待ちにけり 大峯あきら
音などでもうすぐここまで来るとわかっているのだと、素直に受け止めてもよいのですが、まだ風は作者のところまで至ってはいません。もしかすると「一筋の涼しき風」は絵に描いた餅に終わるかもしれないのです。そうなると〈涼しき風〉を詠みながら実際には〈暑し〉の句になる……「待ちにけり」が俄然面白く思えてきます。
虚子の部屋涼し立子の部屋いとし 後藤比奈夫
孫といふ涼しき命抱きにけり 今瀬剛一
百年後全員消エテヰテ涼し 小澤 實
これらは心で感じる涼しさといえましょうか。比奈夫の父は夜半です。父の師である虚子への敬意と、直接の師である立子(虚子の二女)への慕情を感じます。剛一が抱いたのは初孫でしょうか。感動に震える瞬間に違いありません。實は皮肉っぽい口調でサバサバと言い放つ感じです。今この世にいる私たちはもちろん消えていますが、人類が消滅していないことを祈ります。(正子)