〈木の実〉は樹木に生る実のうち、果物と呼べるもの以外の総称(広義には果物も木の実、草の実と言えますが、一般にはそのように区別します)。〈団栗〉はブナ科の落葉樹(櫟、楢、樫など)の実で、狭義には〈櫟(くぬぎ)の実〉を指します。〈○○の実〉と樹木の固有名を入れて呼ぶこともできるのですから、〈木の実〉は名前を意識せずに使う(使える)季語でもあるでしょう。
よろこべばしきりに落つる木の実かな 富安風生
香取より鹿島はさびし木の実落つ 山口青邨
〈木の実〉と聞けば私はまっさきに風生の句を思います。いつだったか、子どもたちが楽しそうに木の実を拾う姿に木が応えているという鑑賞を読んだことがありますが、子どもを登場させなくても、そもそも作者自身が喜んでいると捉えてもよさそうです。〈木の実時雨〉の様相を呈しているのでしょう。落ちる音やリズムも楽しそうです。
青邨の句は、高浜虚子一門の「武蔵野探勝」吟行で、香取神宮、鹿島神宮を一日で回ったときに詠まれています。昭和8年10月1日作。私も仲間と行ったことがありますが、一日でというのはかなりハードな日程です。ですが、のんびりと出かけた私は「鹿島はさびし」の感慨を抱きませんでした。秋の一日の時間差が詠ませた句なのかもしれません。
母と子に夜も木の実の落ちしきる 橋本多佳子
森に降る木の実を森の聞きゐたり 村越化石
多佳子は夜、家の中で音に耳を澄ましているのでしょう。視覚で確かめてはいませんから総称でよいのです。
化石は病のため目が不自由でした。森が聞いている音は即ち化石が耳を澄ましている音でもあるでしょう。
団栗の寝ん寝んころりころりかな 一茶
どんぐりが両手にあふれ父である 小島 健
前の句は、団栗がころりと転がりやすいことと、子どもに縁の深い木の実であることを示していそうです。一茶のころも今もその点では同じだと思うと、親しみを感じます。
後の句は、子が父の手を器代わりにどんぐりを拾っているのでしょうか。「どんぐり」とひらがな書きになってもいて、幼い子であることを感じさせます。
では〈○○の実〉はどうでしょう。
手にのせて火だねのごとし一位の実 飴山 實
真弓の実昔の赤はこんな赤 後藤立夫
青空に金鈴子とはよき名なり 森田かずを
色を得し雫紫式部の実 日原 傳
それぞれの実を知らない者にも、〈一位の実〉は火の色で、〈真弓の実〉は紅色、〈金鈴子(きんれいし/栴檀の実)〉は金色の鈴のようであることがわかります。そして〈紫式部の実〉は、宿った雨粒に色をうつすほど紫です。
菩提子を降らせし樹なり敬ひぬ 大石悦子
悼むとは無患子の実を拾ふこと 山本洋子
〈菩提子(ぼだいし)〉は〈菩提樹の実〉のこと。釈迦が入滅した天竺菩提樹の実では(おそらく)ありませんが、同じ音をもつせいか、ありがたく思われるのです。
〈無患子(むくろじ)〉は中の黒い種子が羽子つき遊びの玉になります。また、連ねて念珠にすることもあります。念珠を爪繰るように、菩提子を一粒ずつ拾って悼む作者なのでしょう。
この秋、あなたは何の実を拾いに行きますか?(正子)




昨年〈秋草〉を取り上げたときに〈草の花〉との違いについて考えました。〈秋草〉を〈千草〉〈八千草〉と言い換えるとかなり近くなりますが、〈草の花〉のほうが総じてひっそりと静かです。




