春の風は光るといいますが、光るのは風のみにあらず。子どものころの私は、耕しが始まるまでは田が遊び場所でしたから、用水路の音と光、田面の色と感触(ズック靴をどろどろにしては叱られていました)などなど、身の周りのすべてがきらきらし始めることを体で知っていた気がします。
水が光るのは雪解けにもよりますが、水生植物が芽吹き、水中の動物が活動を始めるからでもありましょう。
これよりは恋や事業や水温む 高浜虚子
東京高等商業学校(現・一橋大学)の卒業生を送る句。人も春の到来とともに新しく動き始めます。
水草生ふ水深きことかなしまず 山口青邨
〈水草生ふ〉はミクサオウと読みます。ミズクサオウと読むことも、〈水草生ひ初む〉の形で使うこともあります。この句は皇居の和田堀のあたりで詠まれたようですが、新社会人へのはなむけとも思えそうな句です。青邨は長く大学で教鞭をとった人でした。
水中のいよよなめらか水草生ふ 鷹羽狩行
〈水温む〉と〈水草生ふ〉が表裏一体の季語であることを思わせられる例句です。共に仲春の季語ですが、前者は「地理」の、後者は「植物」の章に収められています。
天地開闢萍の生ひそむる 斎藤愼爾
蓴生う魚たちの眼もふるふると 四ツ谷龍
「萍(うきくさ)」は水底で越冬し、春になると水面に浮いて増え始めます。あっという間に水面を覆う繁殖力に「天地開闢」は実にふさわしく思われます。「蓴(ぬなは)」はその文字で明らかなように「蓴菜(じゆんさい)」のことです。ちなみに萍も蓴菜も夏の季語です。「生ふ」がついて春の季語となります。
水中のみならず水辺にも大きな変化が現れます。
見え初めて夕汐みちぬ蘆の角 太祇
さざなみを絶やさぬ水や蘆の角 村上鞆彦
葦牙の水のつぶやき忘れ潮 佐藤鬼房
蘆(あし)と葭(よし)は同じ植物を指します。その茎で作った簾を葭簀といいますが、春に芽ぐむときには〈蘆の角(つの)〉〈角組(つのぐ)む蘆〉〈蘆牙(あしかび)〉とするのが一般です。
角や牙のようにつんと尖った芽はたちまち生長し、晩春には若葉となります。
古蘆のけぶりかぶさる蘆若葉 深見けん二
若蘆の葉先の風に揃ひけり 今瀬剛一
前年の枯蘆を刈り取っていない場所には、けん二の句の景が現れます。また、丈がちぐはぐなままそよぐ蘆叢も見たことがありません。共に精緻な写生の技が光る句といえるでしょう。
水音の耳うち荻の角組まれ 和久田隆子
荻は蘆とよく似ています。芽はどちらも尖っていますが、葉が伸びてくるとススキに似ているほうが荻と判別できます。船頭小唄の「河原の枯すすき」は実は荻のことではないかと、昔、近江八幡の船頭さんから聞いたことがあります。さてどうでしょう。
水辺に降りたら、ぬるんできた水をゆっくり覗いてみてください。(正子)