今月の季語(三月) 二つの雛祭
三月の行事と言えば、まず〈雛祭〉でしょうか。身近な食料品店にも立春のころから〈雛あられ〉や〈菱餅〉〈白酒〉などが並び始め、バレンタインデーの翌日にはその一画が桃の花色に変わっていたりします。商戦に踊らされているようでもありますが、普段の買い物をしながら、触れて嬉しい季節感の一つです。
潮引く力を闇に雛祭 正木ゆう子
雛菓子を買はざる今も立ち停る 殿村菟絲子
雛あられ両手にうけてこぼしけり 久保田万太郎
白酒の紐の如くにつがれけり 高浜虚子
ひし餅のひし形は誰が思ひなる 細見綾子
高額出費が見込まれる〈雛人形〉は、年が明けて羽子板のシーズンが終わるとまず「変わり雛」が話題になります。〈雛市〉が立つという時代ではありませんが、〈雛の店〉は活気を帯び、百貨店でも〈雛売場〉が拡大されます。殊に幼い女の子がいる家庭では、お節句に向けて熱い相談が繰り返されるのではないでしょうか。
雛店の雛雪洞の総てに灯 大橋敦子
雛市やゆふべ疾風にジャズのせて 石橋秀野
木に彫つて寧楽七色の雛かな 飴山 實
これはこれは貝雛の中混み合へる 大石悦子
かように三月の雛祭に関しては、売り買いが絡むこともあって絢爛豪華に、はたまたしっとりと思いを籠めてとりおこなわれ、季語もひしめき合っております。
天平のをとめぞ立てる雛かな 水原秋桜子
雛飾りつゝふと命惜しきかな 星野立子
さて、ここで思い出していただきたいのが、先月の「節分は立春の前日だけではない」の一節です。実は雛祭も、年に一度のみではないということをご存知ですか?
もっとも祭とまでいうと語弊があるかもしれません。雛市も立ちませんし、店先に雛菓子が並ぶこともありません。また、今では誰もが行うものでもなくなっています。が、雛を飾る風習は九月九日にもあり、これを〈後の雛〉〈秋の雛〉と呼ぶのです。
豊年の雨御覧ぜよ雛達 一茶〈秋〉
畳に手つきて絵を観る後の雛 中西夕紀〈秋〉
九月九日といえば〈重陽の節句〉〈菊花節〉です。雛壇に菊を描いた絵櫃を供えることもあるそうですから、二句目の「絵」は菊の絵でしょう。そういう日に祀る雛ですから〈菊の雛〉ともいいます。
しほしほと飾られにけり菊雛 飯田蛇笏〈秋〉
私が実際に菊の雛を見たのは、文京区の旧安田邸でした。その日、雛壇に菊の生花はありませんでしたが、庭に鉢植えの菊が並んでいました。半年に一度、風を通し、埃を払うのですから、維持管理にもよさそうです。お宅の雛人形にも春風と秋風をいかがでしょう?
三月の後半には〈お彼岸〉があります。春分の日を〈お中日〉として前後三日の七日間をさすときは時候の季語、〈彼岸会〉〈彼岸詣〉を意味するときは行事の季語となります(歳時記には別の部に収められています)。彼岸も年に二度あります。単に〈彼岸〉といえば春の季語、秋の彼岸をさすときは〈後の彼岸〉〈秋彼岸〉として区別します。
毎年よ彼岸の入に寒いのは 正岡子規〈春〉
秋彼岸山は入り日を大きくす 成田千空〈秋〉 (正子)