ようやく〈秋暑〉を口にしあうほどに秋めいてまいりました。つまり、いまだに暑い暑いと人はかこちあっています。が、見渡せば〈秋草〉が次々に花を掲げ始めています。顧みれば極暑の候にも、萩が走り咲き、葛が鉄塔を猛然と這い登っていました。桔梗の初花も早かったですし、水引草も繁茂していました。秋草は花のイメージこそ楚々としていますが、実はなかなかの強者であるのでした。
東塔の見ゆるかぎりの秋野行く 前田普羅
薬師寺の東塔でしょうか。塔の存在を常に確かめながら野を進みゆく作者です。塔のほかに草木や空、雲が目に入っていることでしょう。そうしたすべてから秋の野を実感しているのです。
日陰ればたちまち遠き花野かな 相馬遷子
花の有無にフォーカスするときは〈花野〉を使います。秋の七草のように名前の定かな花というよりは、とりどりさまざまに咲き乱れているイメージでしょうか。
大花野わが思ふ母若くして 小川濤美子(なみこ)
作者の母は、
曼珠沙華抱くほどとれど母恋し 中村汀女
と詠んだ汀女です。濤美子の句は、花の名を指定しない〈花野〉の茫漠とした印象を生かした例と思います。
はじめより一人花野をどこまでも 櫻井博道
夕花野はてしなければ引き返す 池田澄子
ひとりづつ人をわするる花野かな 井上弘美
果てしなく広く、深く入りすぎると戻れなくなる場所でしょうか。
友情をこゝろに午後の花野径 飯田蛇笏
蛇笏の花野ならば、午後のまだ日のあるうちならば、大丈夫かもしれません。
山姥となりて入りゆく花野径 齋藤愼爾
いやいや決して油断はならないようです。茫漠とした印象なればこそ、さまざまな詠み方ができるのかもしれません。
をみなへし又きちかうと折りすすむ 山口青邨
花野といわずに花野を詠んだ句ともいえましょう。指定された色は黄と紫ですが、他の色の花もきっとと思わせられます。
わが行けばうしろ閉ぢゆく薄原 正木ゆう子
作者は薄ばかりで覆われた野を漕ぐように進んでいます。さながら生き物の胎内に入りゆく心地でしょうか。
秋草を活けかへてまた秋草を 山口青邨
死ぬときは箸置くやうに草の花 小川軽舟
〈秋草〉と同義のはずですが、似て非なるものといいたくなる季語に〈草の花〉があります。前の句は秋草としかいっていませんが、活けるに足るしっかりした草本でありましょう。対して軽舟のほうは、名前はあっても知らないし、調べようともしない草。それが花を付けているのでしょう。季語の機微のようなものを大切に、詠み分けたいものです。(正子)