↓
 

caffe kigosai

作成者アーカイブ: masako

投稿ナビゲーション

← 古い投稿

今月の季語(4月) 辛夷・片栗の花

caffe kigosai 投稿日:2023年3月18日 作成者: masako2023年3月20日

辛夷の花も片栗の花も、四月の季語として掲げるにはいささか遅いのですが、今回は、俳句においては掟破りとされる季節を戻すことをさせてください。

三月十四日、訃報をひとつ受けました。私は東京・国分寺市の殿ヶ谷戸公園にいました。実は公園に入る前に、きごさい理事長の長谷川櫂さんから「本当か」という問い合わせを着信していました。ガセであってほしいと祈りながら、公園内をぐるぐる巡っているところへ届いた、確かな筋からの知らせでした。

師・黒田杏子急逝の報に、綺麗だなあと仰いでいた空の色が違って見えました。黒い画用紙の上に青い絵の具を塗ったような色。青くはあるのですが、冥いのです。こころ次第で見え方が変わることを、こころならずも実感しました。

殿ヶ谷戸公園には二月にも来ていて、そのときには節分草が咲いていました。

ふたり棲む節分草をふやしつゝ               黒田杏子『一木一草』

節分草白光(びやつくわう)金とむらさきと 同   『日光月光』

母のこゑ節分草の咲くころね              同

節分の名のとおり、冬と春のあわいに咲き出し、ほんの一週間ほどで再び地上から消えます。多年草なので地下で命をつなぎ、一年後にまた現れるのです。「節分」は冬の季語ですが「節分草」は早春の花、歳時記にも春の部に収められています。

近付いてよくよく見ると、まさに二句目のさまであることがわかります。知る人ぞ知るタイプの植物ですから、第一句や第三句のように、人と取り合わせて詠むのもよさそうです。

庭園の方から、同じ斜面に三月には片栗が咲き出すと聞いていましたので、何はともあれ、片栗の斜面を目指そうと、その日は入口から直行したのでした。

かたかごの雨に跼めば男老ゆ               黒田杏子『木の椅子』

かたかごの斜面を満たす山の音    同   『水の扉』

私には何の音も聴き留められませんでしたが、ほつほつと咲き出した紫の花に向き合いながら、お目にかかる前の若い先生の姿を想像していました(『木の椅子』『水の扉』は第一、第二句集です)。

殿ヶ谷戸公園は武蔵野崖線の高低差を利用して作庭されています。片栗の斜面をあとにして、竹林を抜け、暖かな日差しの丘を登りにかかりますと、それはそれは見事な辛夷の大木が。

こぶし咲き満ちたるのちを発たれしと 黒田杏子『日光月光』

飯田龍太夫人への悼句です。そのまま今の私のこころだと思いました。

辛夷との出会いを描いた先生のエッセイがあります。

「ある朝学校に向かっていつもの道を行きますと、雪をかぶったようにまっ白い木が目の前に立っているのです。きのうはなかった、不思議な気持ちで木の下を通り抜けました。帰り道で一緒に歩いていた子供たちが「コブシ、コブシ」とさけんで今朝の高い白い樹に向かってかけ出しました。」(「辛夷の咲く日」『黒田杏子歳時記』)

心ひかれる花の名を知ることは、幼子がことばを獲得するときに似ています。「日本列島櫻花巡礼」で知られる先生ですが、発たれたときのまなうらには、辛夷の白い花があったのではないかと思われてなりません。(正子)

 

今月の季語(3月)三月(2)

caffe kigosai 投稿日:2023年2月17日 作成者: masako2023年2月18日

〈三月〉はカレンダー通りに三月のこと。暖かな日も増え、春の気配がぐんと濃くなってきます。南北に長い日本列島ですから一律ではありませんが、頬に当たる風がゆるみ、雲は白く柔らかく、木々の芽吹きが始まって視界がほんわりと緑を帯びてきます。

いきいきと三月生る雲の奥                                    飯田龍太

三月や生毛生えたる甲斐の山                       森 澄雄

三月の甘納豆のうふふふふ                                    坪内稔典

 

龍太はこの句の自解に、春の甲斐を訪うならば三月がよいと記しています。その三月に甲斐を訪れたのでしょう。澄雄は笑い始めた山を「生毛」で表現しています。むずむずとくすぐったい感じが伝わってきます。稔典の句は口誦性が高く夙に有名ですが、まだ大笑いには到らないけれど含み笑いが止まらない、といった春の進み具合を読み取ってみたいと思います。

月のはじめには東大寺の〈お水取〉があります。耳にするだけでぶるっと厳しい寒さを連想します。が、月後半には「暑さ寒さも彼岸まで」を実感する気候となります。

水取りや氷の僧の沓の音                                        芭蕉〈行事〉

巨き闇降りて修二会にわれ沈む                            藤田湘子〈行事〉

毎年よ彼岸の入に寒いのは                                    正岡子規〈時候〉

春分や手を吸ひにくる鯉の口                                宇佐美魚目〈時候〉

彼岸会の若草色の紙包                                            岡本 眸〈生活〉

 

〈如月〉は旧暦二月の異称ですから、ほぼ新暦三月にあたりますが、衣更着(きさらぎ)の意を汲むと新暦の二月として使いたくもなる季語です。新暦と旧暦のずれについては一旦おくとして、新暦三月のはじめは〈如月〉の語感のままに鋭く、末には〈弥生〉の語感に近くなる、そういう感じ方もできそうです。

 

如月の水にひとひら金閣寺                                    川崎展宏

家建ちて星新しき弥生かな                                    原 石鼎

 

三月にはまた、昔は無かった制度が季語となったものも数多くあります。

 

一人づつきて千人の受験生                                    今瀬剛一

合格を決めて主審の笛を吹く                                中田尚子

一を知つて二を知らぬなり卒業す                        高浜虚子

卒業生言なくをりて息ゆたか                                能村登四郎

卒業の別れを惜しむ母と母                                    小野あらた

 

百人百様の卒業がありそうです。

悲しい記憶がそのまま季語となったものもあります。

 

青空でなくてはならぬ空襲忌                                 大牧 広

三・一一神はゐないかとても小さい                      照井 翠

三月十日も十一日も鳥帰る                                     金子兜太

 

空襲忌は〈東京大空襲忌〉、三・一一は〈東日本大震災忌〉です。〈三月十日〉〈三月十一日〉のみで季語として使えますが、兜太はあえて別の季語を立てています。三月十日は毎年巡り来る三月十日である以上に昭和二十年の三月十日であり、同様に平成二十三年の三月十一日なのでしょう。時間軸上には六十六年を隔てる二日がカレンダー上に隣り合って並ぶ、三月はそんな月となりました。さて、あなたの三月はどんな月ですか?(正子)

今月の季語〈二月〉 雛(2)

caffe kigosai 投稿日:2023年1月17日 作成者: masako2023年1月18日

雛祭は五節句(人日/七種、上巳、端午、七夕、重陽)の一つである上巳に、主に女の子の健やかな成長を願って行われる催しです。本来は旧暦の三月三日ですが、新暦で行うことのほうが断然多い昨今です。正月の松がとれると、百貨店等の雛人形売場は熱気を帯び始めます。祖父母世代がはりきりすぎると、

初雛の大き過ぎるを贈りけり   草間時彦

という次第となりますから要注意です。

テーマに〈雛〉を取りあげるのは二回目です。前回は〈雛〉の俯瞰を試みましたが、今回は恣意的主観的に季語が熟してゆく例を辿ってみましょう。昨年刊行した『黒田杏子の俳句』では一年を月ごとに追った第Ⅰ章の「三月」の項にまとめています。

雛祭は一年に一度巡ってきますが、ゆえに毎年詠み続けるのが難しくもなります。世につれデザインの変遷はあってもおおむねは昔のままに、また顔ぶれの入れ替わりはあっても近い関係で祝いますから、「去年も詠んだ句」になりかねないのです。

『黒田杏子の俳句』で句の分類のために設定した項目は「雛店」「寂庵」「母」でした。「雛店」とは東京・浅草橋に本店を置く吉德です。昭和六十(1985)年から「吉德ひな祭俳句賞」を開催しています。今年で三十九回。黒田杏子が一人で選者を務め、選者吟として3×39句を献じてきました。「寂庵」は先ごろ亡くなった瀬戸内寂聴師が嵯峨野に開いた庵。奇しくも同じ年の十一月から寂聴命名の「あんず句会」が本堂で始まり、全国各地から人が集まりました(2013年閉会)。

こうした巡りあわせは普通は無いでしょう。ですがさながら「行」を修めるがごとくに、選句と作句の両輪を弛まず回し続けることも常人にはしかねることです。

吉德ひな祭俳句賞選者吟に沿って何句か読んでみましょう。

第一回   雛かざるひとりひとりの影を曳き

第二回   寂庵に雛の間あり泊りけり

第四回   月山の雪舞ひきたり雛の膳

第六回   雛かざるいつかふたりとなりてゐし

第九回   なにもかもむかしのままに雛の夜

第十回   吹き晴れし富士の高さに雛飾る

第十一回  ととのへてありし一間の雛づくし

第十二回  雛の句えらみ了へたる余寒かな

第十六回  立雛やまとの月ののぼりきし

第十七回  母の一生(ひとよ)ひひなの一生かなしまず

第十八回  裏千家ローマ道場雛葛籠

第二十一回 雛の間に母のごとくに手を合はす

第二十三回 曾祖母の雛祖母の雛みどりごと(句集には「みどりごに」の形で掲載)

第二十四回 句座果てて月の嵯峨野の雛祭

第二十六回 父も母も大往生の雛の家(同「ちちははの大往生の雛の家」)

第二十九回 雛の句を選みて二十九年目

第三十回  雛店の三百年の十二代

第三十一回 ワシントンより届きたる雛の句

第三十二回 桃の日の母に供ふるかすていら

第三十六回 雛の間に座してしばらく兄と父

第三十七回 東京三月炎ゆる人炎ゆる雛

血縁を確かな軸としながら出会いを詠い、詠うことによって出会いを新たな血脈とする。季語と「一生」もまた両輪のように回り続けて豊かになってゆくものなのでしょう。(正子)

今月の季語〈一月〉 一月

caffe kigosai 投稿日:2022年12月17日 作成者: masako2022年12月17日

二〇二二年二冊目の単著となる『黒田杏子の俳句』を刊行しました。所属誌「藍生(あおい)」に一九年一月号から三年間連載したものを元にしていますが、最初から単行本化を想定していたわけではないので、改めて構成を考えた結果、前後の脈絡を整えることが編集作業の第一関門となりました。資料も整え直すつもりでしたが、「黒田杏子」の誕生日=八月十日までに、ということになり大慌て。手順を飛ばした感もありますが、のんびりしていたらまだ世に出ていなかったかもしれません。

書き足したかった項目もあります。その一つが「一月」です。句をピックアップしたら膨大な量となり、連載一回分には収まり切らなかったのでした。

皆さまの「一月」の作句量は多いですか? 私はたいへん少ないのです。ゆえに「出るわ出るわ」の状況に目眩く思いでしたが、理由もすぐにわかりました。かつて「藍生」には結社をあげてのロングラン企画「観音霊場吟行」があり、〈初観音〉のある一月には必ず吟行計画が組まれていたからです。

そういうわけで連載では(つまり本にも)「初」を分類の柱としました。本文に反映させることが叶わなかったのは次の季語です。

【元日】

ほろほろと酔うて机にお元日『日光月光』

【二日】

檜葉垣の内に句座ある二日かな『木の椅子』

二日はや千人針を刺す童女『日光月光』

【二日灸】

はじめての二日灸といふものを『日光月光』

【三日】

よく晴れて三日の坐り机かな『一木一草』

【四日】

毛衣の四日のをんな鬼子母神『木の椅子』

真間の井に四日の午後のわれのかほ『一木一草』

日の沈むまで鴨を聴く四日かな『同』

【五日】

死者のこゑとてなつかしき五日かな『花下草上』

【六日】

髪剪つて六日の風のあたらしく『一木一草』

六日はも鰥夫六輔六丁目『花下草上』

【七種】

七種や母の火桶は蔵の中『木の椅子』

あをあをと薺の粥を吹きにけり『同』

帯高く七種籠を提げてきし『一木一草』

吹きさます七種の粥天台寺『同』

寂けさの七種爪を剪りてのち『花下草上』

七種の粥いただきぬ百花園『日光月光』

薺摘む疎開者の母摘みしごと『銀河山河』

すずなすずしろはこべらもととのひぬ『同』

※〈七日〉〈人日〉の例はありません。

※〈二日灸〉〈七種〉は「生活」の季語ですが、並列させています。

月齢を季語として使う〈月〉(moon)の例もありますが、その月(month)が始まって何日目かを示す語が季語になることが面白いです。それを詠みこんで欠ける日が無いということに圧倒されたのでした。

〈小正月〉(女正月)(=十五日)や、地域性があるようですが〈二十日正月〉〈晦日正月〉を加えると、一月のひと月を通して日付で詠めます。

いかがでしょう。挑戦してみませんか? (正子)

今月の季語〈十二月〉 年用意

caffe kigosai 投稿日:2022年11月17日 作成者: masako2022年11月18日

二〇二二年も歳末となりました。「波」の心配をしながら「来年こそは」と念ずるのが、残念ですが年越しの定番になってきました。ですが、波がおさまってから計画を立てるのはなく、まずは計画を立てようと思えるようにもなってきました。

というわけで、計画通りに粛々と進められるとは限らない年用意、年越し、新年の抱負、……を今からこなしてまいりましょう。

まず今年は〈事始(ことはじめ)〉という生活の季語を意識してみませんか? この日から新しい年を迎えるための仕事を始めるという意味です。農事の事始は明けて二月八日ですが、〈正月事始〉の意で用いるときには十二月十三日です。祇園の華やかな(新型コロナ襲来以前ほどでないとはいえ)事始が映像で流れますから、その夜のニュースは要チェックです。

京なれやまして祇園の事始             水野白川

軸赤き小筆買ひけり事始             小林篤子

二句目の小筆は〈賀状書く〉のに使うのでしょうか。

知らぬ子と遊ぶ吾が子や賀状書く      岸本尚毅

賀状うづたかしかのひとよりは来ず    桂 信子〈新年〉

〈賀状〉のみですと新年の季語ですが、「書く」をつけて年末の季語になります。年末と新年と共通する語の入る季語の例が多々ありますが、「用意する」というニュアンスを付加して年末の季語になることを意識しましょう。

注連飾る去年の釘の曲るまま          赤尾恵以

火の香りしてゐて留守や注連飾り      西山 睦〈新年〉

年末の大掃除、年越し用の買物、飾りつけ、料理や器物、衣類の支度などに、いそいそと忙しなく立ち働くことになります。〈年用意〉はそういったものすべてを指す総称です。

縄の玉ころがつてゐる年用意          高野素十

山国にがらんと住みて年用意          廣瀬直人

正月用のもろもろを売るために立つ市を〈年の市〉といいます。

注連の山その中ぬくし年の市          山口青邨

アマゾンを地球の裏に年の市          和田悟朗

一句目、売られている間は注連飾も物であるところが面白いです。「ぬくし」は実感であり発見です。二句目は、雑駁に売り物が並んだり掛かったりしているさまから、まるでアマゾンだ、本物のアマゾンは地球の裏側だけど、と発想したのではないでしょうか。

そして年年歳歳わが家では頭痛の種になっているのが〈煤掃(すすはき)〉です。いわゆる年末の大掃除ですが、今年こそ、家を浄め年神様を迎える心持ちで、と念じています。

煤掃いて其夜の神の灯はすゞし        高浜虚子

煤払終へ祖父の部屋母の部屋          星野立子

とはいえ押し詰まって句会の予定があるし、と思っているのも私です。逃れるために外出することを〈煤逃(すすにげ)〉といいます。

煤逃げの蕎麦屋には酒ありにけり      小島 健

そのまま〈年忘(としわすれ)〉に突入ということもまたよくある話ですが、さて今年は首尾よく酌み交わすことができるでしょうか。(正子)

十一月 凩・木枯

caffe kigosai 投稿日:2022年10月18日 作成者: masako2022年10月19日

今年はいつまでも蒸し蒸しと暑く、夏物が仕舞えないとぼやいていましたが、十月初旬にいきなり真冬のように冷え上がりました。あわてて冬物を出した方も多いでしょう。季節は確実に移っていますが、ゆきあいのなだらかだった昔が懐かしくもあります。

ともあれ今年の立冬は十一月七日。〈初冬〉〈はつふゆ〉に入ります。

冬来れば母の手織の紺深し         細見綾子

立冬のことに草木のかがやける      沢木欣一

〈立冬〉〈冬来(きた)る〉〈冬に入る〉〈今朝の冬〉は同義に使えます。沢木・細見夫妻はともに、冬と呼ぶようになった今日の、昨日までとは異なる景や感慨を汲み取っています。

立冬と言葉も響き明けゆく空        髙柳重信

冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ       川崎展宏

同義の季語であっても文字数やリズム、音の響きが異なります。Tの音や促音の入る立冬は弾けるように、「ふ」「ゆ」の音はやさしく響きます。展宏の句は〈冬〉の項の例句ですが、私はいつも冬に慣れきっていないころの句として味わっています。

湯にゆくと初冬の星座ふりかぶる    石橋秀野

初冬の音ともならず嵯峨の雨        石塚友二

〈初冬〉も同様に「ショトウ」と読むか「はつふゆ」と読むかによって印象が変わります。銭湯へ行くときの寒さは「ショトウ」、ひそやかな雨は「はつふゆ」―必ずしもこじつけなくてよいのですが、使い分けを意識したいものです。

これまでもたびたび触れてきましたが、うっかりしやすいものに〈末枯〉と〈枯〉の使い分けがあります。〈末枯〉はまさに文字通り「末」(先端)のほうだけが枯れることを指し、秋の季語です。

名を知らぬまま末枯のうつくしき             有澤榠樝〈秋〉

草山の綺麗に枯れてしまひけり              正岡子規〈冬〉

末枯と枯とでは、残り方もその色合いも異なるはずです。脳内に絵を描きながら味わいましょう。

そしてまさにこの間を吹く強い北風が〈凩・木枯〉です。文字通り「木」を「枯」らす風です。季語の「枯」は枯死することではなく、木の葉を散らしきることですから、木々に葉が無くなったあとの風を〈凩・木枯〉と呼ぶ必要はありません。〈北風〉〈空風〉〈○○颪〉など応じて詠み分けてください。

凩の果はありけり海の音                     言水

海に出て木枯帰るところなし                 山口誓子

「木」に関わる風を海と取り合わせる発想は江戸時代から存在しました。おそらく誓子も言水の句を知っていたことでしょう。「あり」と「なし」は対極にある語です。変貌を詠んだ前句と、消滅の後句、違いを味わってみましょう。誓子の句は昭和十九年作。特攻隊と重ねて鑑賞されたこともあったようです。

木がらしや目刺にのこる海の色              芥川龍之介

こがらしの樫をとらへしひびきかな           大野林火

木枯にさらはれたくて髪長し                 熊谷愛子

凩にまなこ輝く一日かな                     山田みづえ

汝を帰す胸に木枯鳴りとよむ                藤沢周平

 

さて、あなたの凩は、どこをどんな音で吹くのでしょうか。(正子)

 

今月の季語〈十月〉⑪ 秋めく

caffe kigosai 投稿日:2022年9月17日 作成者: masako2022年9月19日

紅葉は秋の季語。でも十月に紅葉は早いよと思う方も多いのではないでしょうか。実は私もこれまではそう思っていました。今年は九月のはじめに長野へ行き、標高が高くなるに従い木の葉の色が変わっていくのを目の当たりにしました。はじめのうちは下界(?)の残暑の記憶を曳いていましたから、病葉? 立ち枯れ? と訝しんでいたのですが、幸いにも紅葉に他ならない桜と真向かうことになり、秋を実感した次第です。

病葉を涙とおもふ齢かな                      齋藤愼爾〈夏〉

霧に影なげてもみづる桜かな               臼田亜浪

すると残暑厳しい下界へ戻ってからも、日を追って様子が変わっていくことを明らかに感じられるようになりました。いつもなら末枯か、せいぜい薄紅葉と思うにとどまる現象であっても、紅葉への一過程としてとらえる眼差しを高山から賜った心持ちでした。

多摩の水すこし激する薄紅葉               山口青邨

末枯といふ躊躇うてゐる景色               後藤比奈夫

私の身辺では薄紅葉というよりは薄黄葉といえましょうか。ほんの少し前までは木々の下に入れば「緑蔭」と思いましたが、今や木の葉を透る日の光がうっすらと黄味を帯びて感じられます。

九月の中ごろ、かつては里山と呼ばれた谷戸を歩きました。ボランティアの方々の丹精の稲が穂を重く垂れ、黄金色の一歩手前の色合いになっていました。また臭木やごんずいの実が、そろそろ遠目に花と見紛うほどに熟してきていました。

柿紅葉貼りつく天の瑠璃深し               瀧 春一

まだ「紅葉且つ散る」には到っていませんでしたが、ときどき拾ったのが柿紅葉でした。コーティングされたようなつややかな柿の葉は紅葉も独特の美しさです。その地に今も実るのは、禅寺丸柿とのことでしたが、原木はわが町内の古刹の境内に今もあります。

禅寺丸柿原木の木守柿                                   正子

棲み古りてここ甘き柿生れる里

拙句でご無礼します。大昔には宮中に献上もされたという甘柿ですが、今では残っているところでのみ出会う存在です。剪定されず、のびのびと大きく育っていることが多いです。

照葉して名もなき草のあはれなる       富安風生

「照葉」は「秋晴」と「紅葉」の両条件を満たして成り立つ季語です。木の葉のみならず、この句のように草の紅葉にも使えるのだと目から鱗でした。

名もなき草という措辞が出てくるのは、「秋の七草」と数え上げられる草があるからでしょう。七種は萩・薄・葛・撫子・女郎花・藤袴・桔梗とされますが、このときの元・里山で見かけたのは薄と葛でした。萩、撫子、女郎花、藤袴、桔梗は花期が早めです。夏のころからあちらこちらで見かけましたから、すでに終わっていたのかもしれません。また若干の手入れが必要な花なのかもしれません。代わりに男郎花、吾亦紅、水引、数珠玉などの剛い植物や、名を知らぬ茸各種を見かけました。タヌキマメ、キツネノマゴなる植物(花も実も)とは初対面。カラスやスズメだけでなく、タヌキやキツネが跋扈する楽しい秋の野でした。

「秋めく」とは秋らしくなるの意。本来は初秋の季語ですが、この程度にまで秋が深まって初めて実感できる気もします。十一月はもう初冬です。十月の野を歩き、秋を堪能してみませんか。(正子)

 

今月の季語(9月) 台風

caffe kigosai 投稿日:2022年8月11日 作成者: masako2022年8月16日

梅雨のころから台風が到来する昨今です。しかも来れば必ずといってよいほど列島を縦断し、隙をつくように新たな被害をもたらします。まるで人間の浅智恵を嘲笑うように。

台風を充ちくるものゝ如く待つ        右城暮石

先んじて風はらむ草颱風圏             遠藤若狭男

颱風の白浪近く箸をとる              山口波津女

暮石は接近中の台風の威圧感を全身全霊で受け止めているようです。逃げようもなく、また挑みようもないものを「待つ」と表現し、刻々と濃くなる存在感を表しています。どこか期待感に通じる感覚かもしれません。

台風には風台風も雨台風もありますが、いずれの場合も先払いのように吹いてくる強い風があります。若狭男は颱風の圏内に入ったことを草の姿態で感じ取っています。どちらの句も怖がっているわけではありませんが、台風を強く意識しています。

対して波津女(山口誓子の妻)は台風が来てしまう前に食事を済ませておこうとしています。人の営みが滞らないように、さまざまな準備を整えてもいることでしょう。台風より日々の暮らしのほうに意識が向いています。さ、あなたも、と誓子も妻に促されて食事をとったかもしれません。

台風はtyphoonの音に漢字を当てていることからも明らかなように、比較的新しい季語です。対して〈野分〉は王朝和歌にも登場している歴史を感じさせる季語です。文字通り野を分けて吹く秋の暴風のことですが、風台風のことだと捉えても間違いではないでしょう。

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな        蕪村

野分中つかみて墓を洗ひをり          石田波郷

吹かれ来し野分の蜂にさゝれけり      星野立子

何か事件があったのでしょうか。画家でもあった蕪村は、緊迫感を視覚的に描いています。

波郷が洗っているのは親しい人の墓石でしょうか。つかんで洗うという荒々しい振る舞いが二人の親密度を表しているようです。野分を突いてその日に来なければならない理由があったに違いありません。

立子の句は、蜂にさされたといいつつどこかユーモラスです。蜂も当惑して八つ当たりするしかなかったのかもしれません。

おとろへし親におどろく野分かな      原 裕

野分来ることに少年浮き浮きと        岩田由美

かつては私も、台風接近中の父母の行動に大人への憧れのような感情を抱いたものでした。おそらく裕もそうだったのでしょう。時を経て、密かに着々と進行していた親の「おとろへ」に気づいてしまったのです。

かつての少女も、周囲のいつもとは異なる慌ただしい雰囲気に、客人を待つような昂りを覚えたものです。少年と感じ方が異なっていたかどうかは、少女でしかなかった私には本当のところは分かりませんが、句としては、いずれ「波津女」の立場となる少女より少年のほうが「浮き浮き」の純度が上がる気もします。もっとも今後のジェンダー差については与り知りませんが。

長靴に腰埋め野分の老教師             能村登四郎

脚をすっぽり覆うほどの長さかもしれません。職業によっても野分感が異なりそうです。

家中の水鮮しき野分あと        正木ゆう子

「野分あと」は台風一過のこと。「家中の水」の捉え方に鮮度があります。

台風も野分も天文の季語ですが、時候の章にも類する季語があります。

島畑のかんかん照りや厄日前          岸田稚魚

田を責める二百十日の雨の束          福田甲子雄

〈二百十日〉は立春から数えて二一〇日目、今のカレンダーでは九月一日ころを指します。早稲の花が咲くころにあたり、農家は大風大雨を恐れました。〈厄日〉ともいいます。できる対策はすべて施し、あとは祈るだけという気持ちがひしひしと伝わってきます。(正子)

今月の季語(八月) 秋果

caffe kigosai 投稿日:2022年7月20日 作成者: masako2022年7月21日

立秋を過ぎると暑さを〈残暑〉と呼び、いつまでも続く暑さを〈残暑見舞〉で労りあいます。夏の暑さより、秋の残暑がしんどいのは、疲労が累積してくるからでしょう。

ですが夏のまっとう暑さがそのあとに出回る果実を甘くみずみずしく育て、残暑に喘ぐ喉を潤してくれます。秋の果実をおいしくいただくことも、自然の巡りに身を委ねることなのかもしれません。

秋果盛る灯にさだまりて遺影はや                       飯田龍太

〈秋果〉は秋の果実類の総称です。実際には個々の名前を季語として詠むことが圧倒的に多いです。具体的に見ていきましょう。

まず夏ではなく秋の季語だと知って驚く代表として〈西瓜〉。果物か野菜か問題は脇へ置くことにしましょう。

風呂敷のうすくて西瓜まんまるし           右城暮石

泣いてをり肘に西瓜の種をつけ               中嶋鬼谷

風呂敷に包んだ西瓜は手土産でしょうか。切り分けていない西瓜を見ることのほうが少なくなった昨今です。後句は誰にも覚えがあるでしょう。結局泣くのだから喧嘩しなければいいのに、と思うのは大人になってしまったからですね。

〈桃〉も「え、秋?」といわれる確率が高いです。種類が多く、早くから出回るからでしょう。

妻告ぐる胎児は白桃ほどの重さ               有馬朗人

指ふれしところ見えねど桃腐る               津田清子

ほら、今このくらい、と妻から白桃を手渡され、初めて父たることを実感した作者かもしれません。また桃はデリケートな果物です。傷みやすいこともあって、貴重品のように扱います。

葡萄食ふ一語一語の如くにて                   中村草田男

昨今は南半球の葡萄が春のころから店頭に並びますが、日本とは季節が逆であることを考えれば、やはり葡萄は秋のものでしょう。

勉強部屋覗くつもりの梨を剝く               山田弘子

水分たっぷりで、剝いてあれば手も汚さず食べられて、子どもの様子を見に行くにはぴったりの果実かもしれません。

よろよろと棹がのぼりて柿挟む               高浜虚子

柿うましそれぞれが良き名を持ちて       細谷喨々

柿も品種の多い果実です。渋柿が圧倒的に多いですが、渋を抜かずに食べられる柿がこの時期には詠まれているようです。棹を伸ばしているのは近所の悪童どもでしょうか。

星空へ店より林檎あふれをり                   橋本多佳子

空は太初の青さ妻より林檎うく               中村草田男

保管技術が進み、ほぼ年中食べられるようになりましたが、穫れたてのみずみずしさは秋のものでしょう。星空も青空も秋の高く澄んだ空です。

栗の毬割れて青空定まれり                       福田甲子雄

胡桃割る胡桃の中に使はぬ部屋               鷹羽狩行

甲子雄は山梨の人。栗が熟すころに、盆地の空は高い秋の空になるのでしょう。狩行の句は、向田邦子のエッセイにも登場します。発表当時を私は知りませんが、話題になったのかもしれません。

実石榴を割れば胎蔵曼陀羅図                 木内彰志

いちじくを割るむらさきの母を割る       黒田杏子

石榴や無花果は流通に乗りにくいのか、メジャーとは言い難い存在ですが、コアなファンがいる果実です。

蜜柑はまだ青いです(青蜜柑=秋/蜜柑=冬)が、柚子、酢橘、金柑、檸檬、……柑橘類が次々に旬を迎えます。柑橘好きの私としては、垂涎の季節の到来です。(正子)

 

今月の季語(七月) 夏の水辺

caffe kigosai 投稿日:2022年6月17日 作成者: masako2022年6月20日

梅雨が明けると水辺に出ることが増えます。〈水遊〉〈船遊〉、もっと直接的に〈泳ぐ〉など。いずれも人の営為なので生活の季語です。

水遊びまだ出来ぬ子を抱いてをり                     日原 傳

だんだんに脱ぎつつ水に遊びをり                     岩田由美

〈水遊〉は名詞ですが、動詞に使いたいときには「水に遊ぶ」などとします。また〈行水〉にも使える〈日向水〉も、この時分の季語です。

尾道の袋小路の日向水                                        鷹羽狩行

作者は山形に生まれ、尾道に育ったそうです。今も袋小路には盥が出ているに違いありませんが、懐かしい心の風景でもありましょう。

木曽川を庭の続きに船遊び                                金久美智子

遊船に灯を入れ男坐りかな                                横井 遥

立ち上る一人に揺れて船料理                             高浜年尾

納涼のために船を仕立てて遊ぶのです。乗り合いの遊船にも使えます。遊船が和のイメージならば、洋のイメージはこちら。

帆を上げしヨット逡巡なかりけり                       西村和子

〈泳ぎ〉の周辺にも季語がたくさんあります。

愛されずして沖遠く泳ぐなり                              藤田湘子

水踏んでゐるさびしさの立泳ぎ                          野村登四郎

平泳ぎやクロールも季語に使えます。水練のみならず、遊びで泳ぐことも季語になります。

海はまだ不承不承や海開き                                  大牧 広

もう一度わが息足して浮ぶくろ                           能村研三

砂日傘抜きたる砂の崩れけり                               小野あらた

海や川での泳ぎはむろんのこと、人工的な遊泳場も季語に使えます。

プールより生まれしごとく上がりけり                 西宮 舞

飛込みの途中たましひ遅れけり                             中原道夫

人工的といえば、ちょっと驚くこんなものも。

釣堀の四隅の水の疲れたる                                     波多野爽波

箱釣の肘の尖つてきたりけり                                 野中亮介

プールも釣堀も四季を問わずに存在しますが、夏は殊に人出が多いという理由です。

〈箱釣〉は金魚釣りのことと思ってよいでしょう。スーパーボールなどの玩具を釣ることもありそうですが。後の句は、だんだん必死になってきた様子がありありと伝わってきます。

それでは釣りも季語かと思ってしまいそうですが、こちらは工夫が必要です。

この雨は止むと出掛くる夜釣かな                       三村純也

大粒の雨が肘打つ山女釣                                 飯田龍太

涼みがてら釣る、夏の魚(鮎、岩魚、鱚など)を釣る等、すこし工夫すると季語になります。(正子)

 

投稿ナビゲーション

← 古い投稿

「カフェきごさいズーム句会」のご案内

「カフェきごさいズーム句会」(飛岡光枝選)は
ズームでの句会で、全国、海外どこからでも参加できます。
*日時:第二土曜日 13時30分~ 2時間程度
【第一回】2023年4月8日(土)13時30分~
*前日投句5句、当日席題3句の2座
(当日欠席の場合は1座目の欠席投句が可能です)
*年会費 6,000円

申し込みは こちら からどうぞ

Catégorie

  • à la carte (アラカルト)
  • 今月の季語
  • 今月の料理
  • 今月の花
  • 和菓子
  • 店長より
  • 浪速の味 江戸の味
  • 花

menu

  • top
  • きごさいBASE
  • 長谷川櫂の俳句的生活
  • お問い合せ
  • 管理

カフェ_ネット投句

・ネット投句は、朝日カルチャーセンター新宿教室(講師_飛岡光枝)の受講者が対象になります。
・毎月20日の夜12時が締め切りです。
・選者はカフェ店長の飛岡光枝、入選作品・選評は月末までに発表します。
<<カフェ_ネット投句へ>>

スタッフのプロフィール

飛岡光枝(とびおかみつえ)
 
5月生まれのふたご座。句集に『白玉』。朝日カルチャーセンター「句会入門」講師。好きなお茶は「ジンジャーティ」
岩井善子(いわいよしこ)

5月生まれのふたご座。華道池坊教授。句集に『春炉』
高田正子(たかだまさこ)
 
7月生まれのしし座。句集に『玩具』『花実』。著書に『子どもの一句』。和光大・成蹊大講師。俳句結社「藍生」所属。
福島光加(ふくしまこうか)
4月生まれのおひつじ座。草月流本部講師。ワークショップなどで50カ国近くを訪問。作る俳句は、植物の句と食物の句が多い。
木下洋子(きのしたようこ)
12月生まれのいて座。句集に『初戎』。好きなものは狂言と落語。
趙栄順(ちょうよんすん)
同人誌『鳳仙花』編集長、6月生まれのふたご座好きなことは料理、孫と遊ぶこと。

  

©2023 - caffe kigosai
↑