辛夷の花も片栗の花も、四月の季語として掲げるにはいささか遅いのですが、今回は、俳句においては掟破りとされる季節を戻すことをさせてください。
三月十四日、訃報をひとつ受けました。私は東京・国分寺市の殿ヶ谷戸公園にいました。実は公園に入る前に、きごさい理事長の長谷川櫂さんから「本当か」という問い合わせを着信していました。ガセであってほしいと祈りながら、公園内をぐるぐる巡っているところへ届いた、確かな筋からの知らせでした。
師・黒田杏子急逝の報に、綺麗だなあと仰いでいた空の色が違って見えました。黒い画用紙の上に青い絵の具を塗ったような色。青くはあるのですが、冥いのです。こころ次第で見え方が変わることを、こころならずも実感しました。
殿ヶ谷戸公園には二月にも来ていて、そのときには節分草が咲いていました。
ふたり棲む節分草をふやしつゝ 黒田杏子『一木一草』
節分草白光(びやつくわう)金とむらさきと 同 『日光月光』
母のこゑ節分草の咲くころね 同
節分の名のとおり、冬と春のあわいに咲き出し、ほんの一週間ほどで再び地上から消えます。多年草なので地下で命をつなぎ、一年後にまた現れるのです。「節分」は冬の季語ですが「節分草」は早春の花、歳時記にも春の部に収められています。
近付いてよくよく見ると、まさに二句目のさまであることがわかります。知る人ぞ知るタイプの植物ですから、第一句や第三句のように、人と取り合わせて詠むのもよさそうです。
庭園の方から、同じ斜面に三月には片栗が咲き出すと聞いていましたので、何はともあれ、片栗の斜面を目指そうと、その日は入口から直行したのでした。
かたかごの雨に跼めば男老ゆ 黒田杏子『木の椅子』
かたかごの斜面を満たす山の音 同 『水の扉』
私には何の音も聴き留められませんでしたが、ほつほつと咲き出した紫の花に向き合いながら、お目にかかる前の若い先生の姿を想像していました(『木の椅子』『水の扉』は第一、第二句集です)。
殿ヶ谷戸公園は武蔵野崖線の高低差を利用して作庭されています。片栗の斜面をあとにして、竹林を抜け、暖かな日差しの丘を登りにかかりますと、それはそれは見事な辛夷の大木が。
こぶし咲き満ちたるのちを発たれしと 黒田杏子『日光月光』
飯田龍太夫人への悼句です。そのまま今の私のこころだと思いました。
辛夷との出会いを描いた先生のエッセイがあります。
「ある朝学校に向かっていつもの道を行きますと、雪をかぶったようにまっ白い木が目の前に立っているのです。きのうはなかった、不思議な気持ちで木の下を通り抜けました。帰り道で一緒に歩いていた子供たちが「コブシ、コブシ」とさけんで今朝の高い白い樹に向かってかけ出しました。」(「辛夷の咲く日」『黒田杏子歳時記』)
心ひかれる花の名を知ることは、幼子がことばを獲得するときに似ています。「日本列島櫻花巡礼」で知られる先生ですが、発たれたときのまなうらには、辛夷の白い花があったのではないかと思われてなりません。(正子)