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今月の季語〈一月〉 喰積(くひつみ)

caffe kigosai 投稿日:2020年12月17日 作成者: masako2020年12月20日

〈正月〉とは〈一月〉の意ですが、今では〈三が日〉、せいぜい〈松の内〉を指して呼び習わしている気がします。2021年は常より長い正月休みが推奨されているのだとか。(仕事始)が遅くなれば、お正月もゆっくりしたものになるでしょうか。

今月は、正月を祝う食べ物の季語を見ていきましょう。

縁起名によぶもの多しお節詰        伊藤敬子

伊勢海老の髭をさまらず節料理   後藤比奈夫

「お節詰」「節(せち)料理」は私たちが「おせち」と呼んでいるもののことです。「節/せち」は「季節」「節句」「節分」等の「節」。最もめでたい「節」である正月を祝う料理を、俳句では新年の季語〈節料理〉として使います。

〈喰積/食積〉は、もとは実際には食べない儀礼的なものでしたが、今では重詰のおせちと同意に使われます。

喰積のほかにいささか鍋の物     高浜虚子

喰積や夫のいちばん箸待ちて     中村堯子

食積にあいその箸やすぐに置く   細川加賀

 

重詰の中には季語がたくさん詰まっています。

〈数の子〉

数の子の数ある生命(いのち)嚙みにけり 角川春樹

〈結び昆布〉

ほぐれたる一つも結昆布かな   山崎ひさを

〈草石蚕(ちよろぎ)〉

ちよろぎ赤し一年の計箸先に        加古宗也

 

草石蚕が添えられている〈黒豆〉は、大豆や小豆同様、季語としては秋のものです。また〈慈姑〉は春の季語ですが、

食積の慈姑その他はなくもがな 石塚友二

と詠めば、新年の一句になります。

 

〈田作(たづくり)五万米(ごまめ)〉

減りしともなく減つてゆくごまめかな     三村純也

〈開牛蒡(ひらきごぼう)叩牛蒡〉

山風に晒して算木牛蒡かな          井上康明

 

切山椒(きりざんせう)は縁起物のお菓子です。正月に限らず寺の縁日などで見かけることがありますが、新年の季語です。

うつとりと切山椒のもたれあふ      須賀一恵

 

定番の「伊達巻」「錦玉子」「きんとん」「紅白蒲鉾」「昆布巻」「煮染」「膾」は、ハレの料理ですが季語ではありません。詠むときには、前出〈慈姑〉同様の工夫が必要です。

節料理のお重の中身には地方色がありそうですが、さらに顕著なのが〈雑煮〉です。餅は丸いか四角いか、焼くのか煮るのか、出汁は何でとるのか、具は何か等々地方によってさまざまです。

母よりも姑なつかしき雑煮かな     芦高昭子

こんなこともあるかもしれませんね。(正子)

今月の季語〈十二月〉 極月

caffe kigosai 投稿日:2020年11月21日 作成者: masako2020年11月22日

再びみたび閉ざされて歳末を迎えようとしている二〇二〇年の私たちです。ウィズコロナと聞いたとき「友だちじゃないし!」と思ったはずなのに、いつのまにか慣れあってしまったのでしょうか。まさに油断大敵です。

〈極月〉とは一年が極まる月、すなわち〈十二月〉のことですが、今日では日常的にこう呼ぶ人は少ないでしょう。私が初めてこの語を知ったのはどこかの句会の席上でした。詳細は忘却の彼方ですが、何か逃れようのない場所へ追い込まれた気分になったことだけは覚えています。今年ほどこの語がしっくりくる年はないかもしれません。いい句(?)ができるかも。挑戦してみましょう。

極月のたましひ抱いて病み昏れむ        石原八束

一人(いちにん)の欠けし極月遍路かな  黒田杏子

どちらも生死にかかわる内容と取り合わせた句です。重く厳しい状況とそれに対する覚悟のほどが伝わってきます。

極月の人の温味のある紙幣         片山桃史

極月の火の色あつめ火を焚きぬ    岩淵喜代子

極月やほうと立ちたる芥の火        岸田稚魚

対してこちらは、一年の突き当りなればこそ感じ得る温かさといえましょうか。札入れを取り出して支払いをするという行為は、小説や映画の一場面のように思える昨今ですが、ぎりぎり分かるのが昭和世代。もっとも「温味」は実際の温度に限りません。寄付や募金の景(〈社会鍋〉のような)を想像してもよさそうです。

極月の路地深く来る箒売            菖蒲あや

〈煤払〉用の箒でしょう。いつもは物売が「深く」までは入ってこない「路地」なのかもしれません。

極月の人々人々道にあり               山口青邨

こちらの「道」は天下の大道でしょう。さまざまな用を抱え、とりどりの装いで行き交う人又人。

極月や犬にもひらく自動ドア       三田きえ子

「なぜ犬が!」と大騒ぎになった店内を想像しましたが、「あれまあ、便利な世の中になったものだねえ」と感心してもよいかもしれません。極月なのだからと許容するような心持ちが醸し出す微かな滑稽味を感じます。

極月やかなしむために母を訪ふ      細川加賀

亡き母を知る人来たり十二月       長谷川かな女

同じ時期を示す〈極月〉と〈十二月〉ですが、入れ替えはきかないことを実感する例ではないでしょうか。

武蔵野は青空がよし十二月       細見綾子

大空のあくなく晴れし師走かな          久保田万太郎

〈師走〉は旧暦十二月の異称。旧暦と新暦はひと月ほどずれますが、師走だけは違和感なく新暦十二月の意に使われます。年の瀬の忙しさに、まさに「師」も「走」るといったところでしょう。前句は「武蔵野」の「野」にひかれて青空の下に広がる欅の林などを思います。後句は「師」のつく職業の人が駆け回る街中でしょうか。作者は万太郎ですから、市井の人々の暮らしが匂い立ってきそうです。

なかなかに心をかしき臘月(しはす)かな    芭蕉

(正子)

 

今月の季語〈十一月〉 初冬の花

caffe kigosai 投稿日:2020年10月19日 作成者: masako2020年10月21日

〈木枯・凩(こがらし)〉が木々の葉を吹き散らし、草々を薙いでいきます。〈小春日和〉と呼ぶほっとする日がある一方で、着々と冬が深まっていきます。

木がらしや目刺にのこる海のいろ            芥川龍之介

海に出て木枯帰るところなし              山口誓子

木を枯らすと書く木枯・凩ですが、例句にはこのほかにも海との取り合わせが多いです。龍之介や誓子の句が浮かぶからでしょうか。「木」は既に文字の中にありますから、他の要素を求めてのことでしょうか。

路地住みの終生木枯きくもよし          鈴木真砂女

木がらしの片刃は墓を濡らしけり          八田木枯

凩にまなこ輝く一日かな                     山田みづえ

妻へ帰るまで木枯の四面楚歌            鷹羽狩行

真砂女の「路地」、木枯の「片刃」、みづえの「輝くまなこ」、狩行の「妻」。それぞれの作家らしい取り合わせかと思います。吹き払われて素の自分になってみると、何か新しいものが見つかるかもしれません。

身ほとりから生き物の気配が消えてゆく頃合ではありますが、だからこそたまさかに出会う彩りにははっと目を引かれます。代表的な「花」を見て行きましょう。

山茶花のここを書斎と定めたり            正岡子規

山茶花は咲く花よりも散つてゐる         細見綾子

〈山茶花〉は秋のうちから春先まで咲く、花期の長い花です。その性質は綾子の句の通り。はらはらと散り継ぎます。

山茶花の散りしく月夜つづきけり          山口青邨

茶の木も同じくツバキ科で、花は小さいですが形が似ています。〈茶の花〉は散るのではなく落ちます。

こもり居や茶がひらきける金の蘂          水原秋櫻子

秋櫻子の「こもり居」は今年のステイホームではありませんが、そういう日々に寄り添ってくれる花というイメージでしょうか。

ツバキ科の花を視覚の花とするならば、モクセイ科の柊は嗅覚の花でしょう。

柊の花一本の香かな                        高野素十

まずその芳香に驚き、見渡してやっと木の存在に気づくということも。もう二十年も前のことになりますが、私にとって忘れられない柊の記憶があります。その日同行者のおひとりは〈柊のたそがれの香にほかならず 岩井英雅〉と詠まれました。曇りがちの日でしたが、夕暮にはまだ間がありました。ほおお~そう詠めばよいのか~といたく感銘を受けました。私も〈ひひらぎの花まつすぐにこぼれけり 正子〉。

また、この季節を選んで咲く桜があります。春の桜とは別種です。

雨雫よりひそやかに寒桜                    稲畑汀子

鮮やかな黄の花を掲げる〈石蕗の花〉は、

つはぶきはだんまりの花嫌ひな花         三橋鷹女

母我をわれ子を思ふ石蕗の花            中村汀女

もしかすると評価の割れる花なのでしょうか。私の気分は、

どこへでも行ける明るさ石蕗の花        鎌倉佐弓

に近い気がします。歩いてゆくと、時ならぬ花に出会うこともあります。

日に消えて又現れぬ帰り花                高浜虚子

返り咲いて一重桜となりにけり             阿波野青畝

父に樒母に杏の返り花                      黒田杏子

〈返り花・帰り花〉は小春日和に誘われた花のこと。狂い咲きというより浮かれ咲きと私は思っています。

〈小春日和〉〈凩〉ともども十一月限定と言ってよい季語です。今のうちに堪能しておきましょう。(正子)

 

今月の季語〈十月〉⑨ 鳥渡る

caffe kigosai 投稿日:2020年9月18日 作成者: masako2020年9月21日

七十二候の一つに〈玄鳥帰る〉があります。玄鳥(げんちょう)は燕のこと。春の〈玄鳥至る〉と対になっています。今年は九月十七日でした。

秋が深まり、北から渡ってくる鳥、南へ帰る鳥、また山から里へ移る鳥が交錯するころとなりました。今月は季語を通して鳥の移動を整理しておきましょう。

まず南へ帰る鳥から。

高浪にかくるる秋のつばめかな    飯田蛇笏

ある朝の帰燕高きを淋しめり     鈴木真砂女

燕は人家の軒など人目につく場所に巣を作りますから、子育ての一部始終を見ることもできます。その不在は家族が欠ける気分にもなって、一層身に染みるのでしょう。

流人島空を自在に海猫(ごめ)帰る  中村翠湖

絵画のような句です。鳴き声が特徴的な海猫も群れをなして帰ります。

〈鷹渡る〉は、夏に日本へ渡来して繁殖した差羽(さしば)が、秋に群れを成して南へ帰る様子を指すことが多いです。北方から飛来する鷹も、留鳥の鷹もおり、冬の季語である〈鷹〉や〈鷹狩〉を構成します。まとめて歳時記で確かめてください。

鷹わたる蔵王颪に家鳴りして     阿波野青畝

日に舞うて凱歌のごとし鷹柱     岡部六弥太

次は北から渡ってくる鳥について。季語ではこれを〈渡り鳥〉と呼びます。

鳥わたるこきこきこきと罐切れば   秋元不死男

渡り鳥みるみるわれの小さくなり   上田五千石

鳥の名も季語になります。まず〈雁〉。〈かりがね(雁が音)〉〈雁の棹〉という季語は、編隊を組んで鳴き交わしながら渡る姿に「秋」を思う古からの伝統そのものでしょう。

さびしさを日々のいのちぞ雁わたる  橋本多佳子

雁や残るものみな美しき       石田波郷

雁啼くやひとつ机に兄いもと     安住 敦

〈鴨〉〈鶴〉は冬の季語ですが、〈鴨/鶴来る(きたる)〉は秋の季語です。

鴨渡る明らかにまた明らかに     高野素十

初鴨の十羽はさびしすぎにけり    大嶽青児

鶴の来るために大空あけて待つ    後藤比奈夫

いつもの池が、ある日鴨でにぎわい始めるという経験がおありでしょう。今から春先まで、密度だけでなく、種類が増えて、楽しませてくれます。鶴や白鳥を、春の燕のように待つ地域もあるでしょう。。

小禽類も渡ります。身近なのはむしろこちらではないでしょうか。年中いる小鳥も加わって、視界に鳥の姿がもっとも増えるのが秋です。

小鳥来る人の暮しと玻璃隔て     稲畑汀子

死の十日あとの空より緋連雀     友岡子郷

かなしめば鵙金色の日を負ひ来    加藤楸邨

鶺鴒のとゞまり難く走りけり     高浜虚子

啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々    水原秋櫻子

身近すぎていつもは景色の一部になっている雀も、秋には〈稲雀〉という季語になります。

稲雀汽車に追はれてああ抜かる    山口誓子

(正子)

今月の季語(9月)露(2)

caffe kigosai 投稿日:2020年8月19日 作成者: masako2020年8月19日

身辺が暑さに涸れ涸れの昨今。露ぶくのはビール瓶くらいだと嘯いている人はいませんか? 朝きわめて早くに起きだしてみてください。〈朝顔〉や〈芙蓉〉の今朝の花が、しっとりとしています。

今年は梅雨明けから立秋までが一週間ほどでしたから、〈夏の露〉を体験せずに終わった気がしますが、

朝の間のあづかりものや夏の露   千代女 〈夏〉

病みてみるこの世美し露涼し    相馬遷子〈夏〉

と、夏にも露の季語があります。千代女の昔から「朝の間」だけの稀少感のあるものだったわけです。その「朝」が少しずつ長く続くようになり、

露けさの弥撒のおはりはひざまづく  水原秋櫻子

晝までの露を大事に草撓ふ       中原道夫

また、夜のうちに露けくなってきて、

露の夜の一つのことば待たれけり   柴田白葉女

十日町更けて露けき筵買ふ      小室善弘

と詠まれながら秋が深まっていきます。

露しぐれ檜原松原はてしなき     蝶夢

〈露時雨〉は露が一面に下りてあたりがしとどになっている状態、もしくは結んだ露が木々の枝からばらばらと落ちて来ることを表します。また〈露涼し〉は夏の季語ですが、

露寒のこの淋しさのゆゑ知らず    富安風生

「寒」の文字が入っていますが〈露寒し・露寒(つゆさむ)〉は秋の季語です。更に寒くなると、

露霜や竹伐りたふす竹の中     石田波郷

降りた露が凍って霜のようになることがあります。それを〈露霜(つゆしも)・水霜(みずしも)〉といいます(すぐに消える霜を指すこともあります)。

〈露〉は三秋を通して使える季語です。人口に膾炙した句も多いです。いくつか挙げてみましょう。

今日よりや書付消さん笠の露    芭蕉

しら露やさつ男の胸毛ぬるるほど  蕪村

露の世は露の世ながらさりながら  一茶

芭蕉の句は『おくのほそ道』所収。随行者であった曽良と別行動をとるに際しての惜別吟。蕪村の「さつ男」は猟師のこと。山へ分け入り獲物を追う猟師の胸毛が濡れるほど、びっしりと露がおりているというのです。一茶の句は、やっと無事に生まれて元気に育っていた愛娘を、病にうしなったときの句です。

露は天文現象ですが、古来より、はかなさや涙を連想させるものとして使われてきました。俳諧、俳句でも、その連想を繋いだり、断ち切ったりして詠み継がれています。

芋の露連山影を正うす       飯田蛇笏

蔓踏んで一山の露動きけり     原 石鼎

露の虫大いなるものをまりにけり  阿波野青畝

金剛の露ひとつぶや石の上     川端茅舎

白露や死んでゆく日も帯締めて   三橋鷹女

白露は「しらつゆ」と読むときは天文現象、「はくろ」と読むときは二十四節気の一つ、時候の季語となります。二〇二〇年の白露は九月七日です。

ゆく水としばらく行ける白露かな  鈴木鷹夫

忌心は白露を過ぎてより深し    稲畑廣太郎

さて、密を避け、ひとり野の露に濡れるのもまた楽しからずや。(正子)

今月の季語(七月) 祇園祭

caffe kigosai 投稿日:2020年6月21日 作成者: masako2020年6月22日

思い返せば、オリンピックの延期が決まったころから、各地の行事がどっと中止を決めました。青森のねぶた祭(八月)が中止を発表したとき、とっさに祇園祭(七月)は!? と思ってしまった私です。疫病退散を祈る祭とはいえ、それはそれ、これはこれ。ニュースが祇園祭の中止を告げたのは、それからほどなくのことでした。

鉾にのる人のきほひも都かな     其角

祇園祭は、七月一日の吉符入り(きっぷいり)から三十一日の疫(えき)神社の夏越(なごし)祭まで、ひと月もの間、連日、京のどこかで何かの行事がある多彩な祭です。コンコンチキチンという祭鉦の音が響き始めると、京に生まれ育った人の血が騒ぐ、とも聞きます。

祇園囃子ゆるやかにまた初めより   辻田克巳

何度も繰り返される調べにのって、螺旋階段をのぼるように心が昂っていくのかもしれません。

京とは縁もゆかりもない私の血まで騒ぐのは、年に一度の同窓会のような吟行会を、祇園祭をターゲットに続けているからです。今年で十六回目になるはずでした。誰かがいない年はありましたが、計画ができなかったのは初めてです。

https://yurikobonz.exblog.jp/18550383/ 祇園御霊会(1)両手の会の同窓会

https://yurikobonz.exblog.jp/18582254/ 祇園御霊会(2)京都通いの始まりは

https://yurikobonz.exblog.jp/18692613/ 祇園御霊会(3)貴船川床

https://yurikobonz.exblog.jp/18698511/ 祇園御霊会(4)京の町

今回はいつもと様子を変えて、URLを貼ってみました。祇園祭同窓吟行会を始めたのは二〇〇五年です。ちょうど十年目までのトピックスをブログにまとめたものです。当時のガラ携による撮影ですが、写真付き。気分だけでもよろしければどうぞ。

居祭(いまつり)であった大船鉾(おおふねほこ)が二〇一四年に再建復活し、四十九年ぶりに前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)の構成で執り行われるようになりました。祭も世につれ人につれ。であれば来年の祭はいかなる様式で? 少なくともマスクしながらはあり得ない。さてさて。

毎年新作が生まれる祭ですが、過去の名作をいくつか読んでおきましょう。

暁の涼しき雨や裸鉾          松瀬青々

辻々に鉾の枠組みが建ち上がって、さっと過ぎる雨に打たれています。美々しい装飾はこのあと。

ゆくもまたかへるも祇園囃子の中    橋本多佳子

祭ではなく他に用があった作者でしょう。一日中「ゆるやかに」繰り返されるお囃子の中を、往復ともに抜けたのです。多佳子には〈祭笛吹くとき男佳かりける〉という艶っぽい祭の句もあります。

くらがりへ祇園囃子を抜けにけり    黒田杏子

山鉾の提灯に灯が入りますし、夜店も煌々と電球を点します。がそうした場所をついと逸れると、真っ暗。それが京の町です。

九十の厄こそ祓へ鉾ちまき       深見けん二

山鉾で売られる特製のちまきは食べられません。厄除けの護符です。買って帰り、玄関口に飾ります。

東山回して鉾を回しけり        後藤比奈夫

十七日の巡行当日の「辻回し」のさま。鉾は直進しかできません。辻に到ると、人力の荒技で進行方向を九十度回転させるのです。作者曰く「鉾の前方に立って扇を振る扇方になって、自分が鉾を回しているつもり」とのことです。(正子)

今月の季語(6月)青梅雨

caffe kigosai 投稿日:2020年5月21日 作成者: masako2020年5月21日

ちょうど一年前のこのコーナーには〈蛍〉をとりあげました。桜前線のように蛍前線もあると記しながら、来年は蛍狩にすこし遠出してみよう、などと考えていたのでした。

それどころではなくなっちゃいましたね!

明滅の螢の沢を屋敷内       黒田杏子

のような暮らしぶりであれば、居ながらにして蛍を楽しめますが、そうではないほとんどの皆さん! 桜のみならず蛍まで、と口惜しいですが、ここはひとつ別の楽しみを見出そうではありませんか。

自粛が叫ばれた四、五月の間に、ジョギングや散歩を日課に取り入れた方が多いようですが、ついでの季語さがしはいかがでしょう。俳句を作る人と連れ立って歩かないと、「作句」に到るのなかなか難しいです。吟行のときも結構歩きますが、立ち止まったり、うずくまったり、沈思黙考したり……します。運動のために歩く、走るというのとはペースが異なりますから。

そろそろ梅雨に入りますが「季語さがし」だけなら、雨が上がっているのを見計らって、ささっと出れば十分できます。春と真夏のはざまにあって、華々しい花の少ない時期ですが、あたりが暗くなるほど草木が茂りあうのに驚いたり、

万緑の山高らかに告(の)りたまへ   奥坂まや

だんだんに一目散に茂りけり   綾部仁喜

目の敵にしていた蕺菜(どくだみ)が清楚な莟をつけていたり。蕺菜は十薬とも呼んで、花のあるこの時期だけ季語になります。

どくだみのいま花どきの位もつ  山上樹実雄

また、しっとりが好きな動物を見つけたり、

青蛙ぱつちり金の瞼かな       川端茅舎

でで虫の繰り出す肉に後れとる    飯島晴子

三四日ぐづつく雨に百足虫出づ    上村占魚

結構いろいろな出会いがあります。俳句でいう「動物」とは「植物」でないもの、「動く生き物」でしたね。

歩いていると、どこからともなく佳き香が漂ってくることがあります。忍冬(すいかずら/金銀花とも)でしょうか。柚子(ゆず)をはじめ柑橘系も花盛りです。梅雨入りのころには梔子(くちなし)も。

月光の昨夜のしづくの金銀花      橋本榮治

柚の花はいづれの世の香ともわかず   飯田龍太

山窪は蜜柑の花の匂ひ壺        山口誓子

今朝咲きしくちなしの又白きこと    星野立子

高い位置に咲くので見づらいですが、泰山木(たいさんぼく)や朴(ほお)の花も香ります。

泰山木花の玉杯かたむけず       上田五千石

寝不足は気で補えと朴咲きぬ      金子兜太

もちろん紫陽花(あじさい)は梅雨の到来を今か今かと待っています。

今回のタイトルの〈青梅雨〉は〈梅雨〉と同義ですが、青々と満ちゆく生気を喜び、讃える季語かと思います。この世への挨拶と言っては大袈裟でしょうか。挨拶をすれば、挨拶が返ってくるのがこの世のならい。さて、どんな声を聞きとめることができるでしょうか。

青梅雨の深みにはまる思ひかな     石川桂郎

青梅雨を歩きへんろとして発ちぬ    黒田杏子

(正子)

今月の季語(5月) 花(3)

caffe kigosai 投稿日:2020年4月19日 作成者: masako2020年4月19日

今年の桜のシーンを思い返すと、咲きだして、満ちる前くらいのところで記憶が止まっています。花吹雪に存分に打たれることなく、ふと気づくと葉桜に。私だけでなく、多くの方がこんな感じではないでしょうか。無念なので、花吹雪のあたりからおさらいしつつ「夏の」桜へと移行しましょう。

一輪二輪と咲きだす〈初花〉も佳きものですが、〈花万朶〉ののち、いっせいにふぶきだすときの美しさには息を呑みます。

息とめて赤子は落花浴びてをり   加藤楸邨〈春〉

をさなごに永きいちにち花ふぶき  池田澄子〈春〉

「赤子」も「をさなご」も何を思っているのでしょうか。幸福な明るい光を感じます。

空をゆく一かたまりの花吹雪    高野素十〈春〉

きらめきて夜空に湧きし落花かな  藤松遊子〈春〉

素十の句は昼の景でしょう。対して遊子の句は夜の景です。〈花吹雪/桜吹雪〉〈飛花〉〈落花〉は〈散る桜/散る花〉と同義です。ニュアンスの違いを味わいましょう。

大方の桜が散るころに咲きだす桜を〈遅桜〉、まだ散り残っている桜を〈残花〉といいます。晩春の季語です。

一もとの姥子の宿の遅桜      富安風生〈春〉

いつせいに残花といへどふぶきけり 黒田杏子〈春〉

残花とはまだふぶくことができる桜なわけです。対して、

かつらぎのふところ深く余花と会ふ 稲畑汀子〈夏〉

〈余花〉は、はからずも出会うもの。桜の青葉の中に数輪の(たった一輪であることも)花を見出したときには、嬉しいというより、まず驚きます。

葉桜のひと木淋しや堂の前    太祇〈夏〉

葉桜の中の無数の空さわぐ    篠原梵〈夏〉

〈葉桜〉は桜の若葉青葉のこと。「この言葉には場に応じて二つの異なる気持がこもる。もはや葉桜になってしまったと花を惜しむ思いと、桜若葉のすがすがしさを愛でる思い」と長谷川櫂氏が書かれています。(『角川俳句大歳時記』夏)

桜も初夏にはほかの樹木同様、〈新樹〉と呼ぶにふさわしい風貌となります。私の好きな句に、

この新樹楓の花をこぼしたり   山口青邨

があります。この句は句集『露団々』に、

古本の本郷若葉しんしんと     青邨

葉桜や逢うて手を挙げ白々と    青邨

の二句の次に収められています。続けて三句読むと、まずどの木も総じて若葉となったことを告げ、次にこの木は桜だ、こちらは楓だ、と樹木ごとに観察しているように思えてきます。青邨の対象の把握のしかたが興味深い句です。

桜も花のあと実を結びます。多くはえぐみがあって食用には向きませんが、中には食べられるものもあるのだとか。

桜の実紅経てむらさき吾子生る   中村草田男〈夏〉

六月頃に旬を迎える〈さくらんぼ/桜桃の実〉は西洋実桜の果実。

茎右往左往菓子器のさくらんぼ    高浜虚子

幸せのぎゆうぎゆう詰めやさくらんぼ 嶋田麻紀

幸せな日々に、一刻も早く戻りますように。(正子)

 

今月の季語(4月) 花(2)

caffe kigosai 投稿日:2020年3月23日 作成者: masako2020年3月24日

二年前の「花(1)」では歳時記の章立てをまたがる「花/桜」の季語―例えば〈花曇〉〈桜貝〉のような植物以外の季語―を読みました。今回は植物の章にある「花/桜」をチェックしていきましょう。

雪月花と並び称されるように、〈花〉は日本の詩歌において昔から重んじられてきた題の一つです。俳句でも伝統を負った竪(たて)の題と位置づけられています。

これはこれはとばかり花の吉野山   貞室

吉野の桜、つまり山桜が本家本元の桜です。まずは押さえておきましょう。この句が描いているのは万朶の花の山ですが、「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と兼好法師が記したように、盛りに到る前の、また到った後の花の季語もたくさんあります。

〈桜の芽〉  切かぶの芽立ちを見れば桜かな   去来

〈花を待つ〉 みちのくの花待つ銀河山河かな   黒田杏子

〈初花/初桜〉初花を木の吐く息と思ひけり    本宮鼎三

人はみななにかにはげみ初桜    深見けん二

桜は樹皮を見ればそれと分かりますが、切株になってしまっても芽で分かるというのが去来の句。芽を詠んでいますが、伐られる前の花のさまを想像しているに違いありません。

杏子の句は二〇一二年作。前年の震災を念頭に置いた句でしょう。「銀河山河」は天上天下、全宇宙の意味合いで私は受け止めています。

鼎三の句もけん二の句も、初花の持つどこかひたむきな印象を詠みとめています。植物の章に置かれていますが、人の気配の濃くまつわる季語とも言えます。

〈花三分〉 花三分睡りていのち継ぐ母に   黒田杏子

〈花五分〉 じつによく泣く赤ん坊さくら五分 金子兜太

〈花万朶〉 花万朶をみなごもこゑひそめをり 森 澄雄

と咲き満ちてゆく段階を示す季語もあります。

咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり    高浜虚子

さきみちてさくらあをざめゐたるかな   野澤節子

のぞきこむ花の奈落や吉野建       長谷川櫂

花盛りと言わなくても〈花〉のみで基本的には昼間の、盛りの花と受け止めてよいほどです。咲き加減を指定したいときには前掲の、昼以外の桜を詠みたいときには〈朝桜〉〈夕桜〉など時間の情報の入った季語を用います。

御山(おんやま)のひとりに深き花の闇  瀬戸内寂聴

チチポポと鼓打たうよ花月夜       松本たかし

いづこより花明りして白障子       長谷川櫂

これらはいずれも夜の花の句です。

〈彼岸桜〉〈大島桜〉〈楊貴妃桜〉〈御衣黄〉など桜の名前も季語として使えます。歳時記等で例句を探してみましょう。

花盛りを過ぎたあとの季語も豊かです。

〈落花〉  中空にとまらんとする落花かな  中村汀女

空をゆく一とかたまりの花吹雪  高野素十

ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋

〈残花〉  残花にも余花にもあらず遅桜   清崎敏郎

〈桜蘂降る〉花の萼こぼれて十日銹びにけり  飴山 實

残花は名残の花、遅桜は花期の遅い桜、余花は立夏を過ぎてもなお残る花で夏の季語となります。夏以降の桜の季語はまた改めて。(正子)

 

今月の季語(三月)水温む

caffe kigosai 投稿日:2020年2月18日 作成者: masako2020年2月21日

〈水温む〉は、春になって河川や湖沼の水温が上がる現象をさす「地理」の季語です。もっとも水温が何度以上というデータが問題なのではなく、水辺の草や、水草が芽を出し、寒い間は底に潜みがちであった魚類が活動的になるなど、「水」まわりへの春の到来を表す季語と言えましょう。

水底に映れる影もぬるむなり    杉田久女

温む水には音のなき雨似合ふ    吉岡翠生

久女の句の「影」は光ととれば、春の陽光のこと。また、まわりの風物の陰影とも、久女自身の人影とも解することができるでしょう。春らしくなってきたなあと水を覗き込むと、底に自分の影が、なんともやわらかな風情に映っていたと読むのがもっとも自然でしょうか。

二句目は「雨」の音を介して聴覚でとらえた温み方です。確かに寒中の水であれば、カンカンと弾き返したかもしれません。「音のなき」という音で、気配であたりを包み込むのが春の水なのでしょう。

同義の季語に〈春の水〉があります。

昃(ひかげ)れば春水の心あともどり 星野立子

春の水とは濡れてゐるみづのこと   長谷川 櫂

立子の句は向島百花園へ吟行に出向いた折の作です。先程迄あった日射しが消えてしまったら春水の表情が暗くなった、と句日記に記されています。「昃」に「ひかげる」という読みは実はありませんが、この句のおかげで(?)「昃る」例句は結構あります。

二句目には作者の自解があります。

↓↓

この世界にあるほとんどのものは水に濡れます。しかし、ただ一つだけ水にぬれないものがある。それが水です。水は水が触れたほかのものを濡らすけれども、自分自身は決して濡れない。

でも、春の水は水自身が濡れているような感じがする。濡れないはずの水でも春の水なら濡れるのではないか。そう思ったのです。      (『現代俳句の鑑賞101』)

「濡れる」も「濡らす」も雅語というわけではなく、日常的に普通に使う動詞です。が、作者の思いによって独自の詩語として立ち上がった一例でしょう。

ところで「俳壇」三月号(令2・3・1発行)を読んでいたら、うってつけの記事を見つけました。「波多野爽波の言葉」として岸本尚毅氏が記されています。

↓↓

三月の声を聞く頃ともなれば、私の許に送られてくる句稿には「水温む」という句が随分と沢山出てくるのだが、どうしたことか「水」に関わる言葉(もの)で詠われている句がまた実に多い。緋鯉だ、橋だ、舟だ、バケツだ、釣りだなどと、挙げだしたらキリのない程である。

句を作り始めて半年か一年ぐらいの方ならいざ識らず、三年、五年と俳句を作ってきてなお「水温む」という季題で「水」に関係あるものを詠っているのでは、些かがっかりさせられてしまう。(中略)季語が「ツキ過ぎ」であるほど、味気ないものはない。 (「青」昭57・4月号)

タイムリーに飛び込んできたこの爽波の言葉、ぜひ脳の片隅に留め置いてください。ちなみにこの特集「さらば!〈つき過ぎ〉」には私も駄文を寄せています。どこかで立ち読みなどしていただければ幸いです。    (正子)

 

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カフェ_ネット投句

・このネット投句は、朝日カルチャーセンター新宿教室(講師_飛岡光枝)の受講者が対象になります。
・毎月20日の夜12時が締め切りです。
・選者はカフェ店長の飛岡光枝、入選作品・選評は月末までに発表します。
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スタッフのプロフィール

飛岡光枝(とびおかみつえ)
 
5月生まれのふたご座。句集に『白玉』。朝日カルチャーセンター「句会入門」講師。好きなお茶は「ジンジャーティ」
岩井善子(いわいよしこ)

5月生まれのふたご座。華道池坊教授。句集に『春炉』
高田正子(たかだまさこ)
 
7月生まれのしし座。句集に『玩具』『花実』。著書に『子どもの一句』。和光大・成蹊大講師。俳句結社「藍生」所属。
福島光加(ふくしまこうか)
4月生まれのおひつじ座。草月流本部講師。ワークショップなどで50カ国近くを訪問。作る俳句は、植物の句と食物の句が多い。
木下洋子(きのしたようこ)
12月生まれのいて座。句集に『初戎』。好きなものは狂言と落語。
趙栄順(ちょうよんすん)
同人誌『鳳仙花』編集長、6月生まれのふたご座好きなことは料理、孫と遊ぶこと。

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