今月の季語〈十月〉 稲妻
日常的には使い分けがさほど厳密でない(かもしれない)雷と稲妻ですが、雷鳴轟く、稲妻が空を裂くと言うように、雷は音、稲妻は光を意味します。季語として使うときには〈雷〉は夏、〈稲妻〉は稲という語の縁から秋となります。実際に夏には激しい雨を伴って雷鳴が轟き、ときに落雷したりもしますが、秋になると、ぱっぱっと空が光る優しい(?)現象になることが多いです。その光が稲穂を孕ませると昔の人は考えたようで〈稲つるび〉という呼称もあります。
今月は秋の季語としての稲妻を見ていきますが、雷〈夏〉と比べながら進めていきましょう。
いな妻のうつるや暁のわすれ水 蕪村
遠雷やいま吊鐘も声を出す 山川蟬夫〈夏〉
一句目は水に映った稲妻ですから、確かに視覚でとらえています。画家であった蕪村の、絵のような句。山川蟬夫は高柳重信の初期の俳号です。遠雷と呼応して吊鐘が鳴るのですから、こちらは聴覚でとらえられています。雷が光を伴い、稲妻が音を伴うことはあり得ますが、鳴らない雷、光らない稲妻はあり得ない、というのが基本です。
いなびかり北よりすれば北を見る 橋本多佳子
稲妻のゆたかなる夜も寝べきころ 中村汀女
稲妻のほしいまゝなり明日あるなり 石田波郷
はっとして北を見る多佳子の美しいかんばせは、歓喜にあふれていそうですし、汀女はまだ寝室に入りたくないと言っています。稲妻を愛する美女二人の句。多佳子の句には「夜」の文字がありません。稲妻は昼間にも起き得る現象ですが、美しく見える夜の句として鑑賞してよいでしょう。波郷の句は肺病に罹患したのちの作です。闇に病む身を横たえているのでしょう。窓は敢えてカーテンを引かず、稲妻を浴びるほど受け、回生の力を得ようという心持ちであったかもしれません。
轟くといふには遠き日雷 伊藤政美〈夏〉
一方、雷は「音」の季語ですから夜昼を問わずに鑑賞できます。〈日雷〉は晴天の雷を表す季語です。
利根川と荒川の間(あい)雷遊ぶ 金子兜太〈夏〉
雷連れて白河越ゆる女かな 鍵和田秞子〈夏〉
日雷田を這うて稲いたはれり 茨木和生〈夏〉
「雷さま」と呼ばれたり、戯画にされたり、雷のほうはよく擬人化されます。「利根川と荒川の間」とは兜太のうぶすな・秩父のことです。雷が発生しやすい土地柄なのでしょう。ああ、また雷さんが遊んでおる、とは豊かな詠みぶりです。一緒に遊ぼう、もしくは、この地を踏まえて雷神のように遊ぶ吾、という気分であったかもしれません。二句目の雷を従える「女」は作者本人でしょう。なんとも勇ましい。実景としては、たまたまそのときに雷が発生していたのでしょうが、心持ち一つで「連れ」にもなれるのです。三句目の稲はまだ青々とした稲でしょう。晴れた空から降りて来て稲をいたわる雷さまです。
「稲妻さま」のような擬人化はポピュラーではないと思いますが、稲妻にも雷には無い働きがあります。その最たるものがフラッシュ効果ではないでしょうか。
顔ふりむきし雄鶏や稲光 高柳重信
稲光して兄弟のうりふたつ 岩田由美
ただ振り向いたのではなく、「顔」がふりむくとはいかにも鶏。立派な鶏冠の揺れに圧され、無機質な眼に見すえられてしまいそうです。岩田さんの息子さんたちは、稲光に照らされていよいよ共通点だけが浮き彫りになったのでしょう。日頃は似て非なる顔立ちだと思っていたのに、なんとまあ、という驚きであったかもしれません。
稲妻の緑釉を浴ぶ野の果に 黒田杏子
青白き地の涯見せていなびかり 檜 紀代
生あるものも無きものも、その瞬間は陶器の玲瓏さを帯びてただ美しい。色彩を楽しめるのも視覚の季語のメリットと言えましょう。(正子)