今月の花(2月)_椿
日本原産の藪椿から作り出された椿の園芸品種は、今では400種に近づくという。葉を見ただけでこれはなんという名でこんな花が咲く、とぴたりと当てる椿愛好家たちの集まりも世界各地であるのだそうだ。
木に春と書く日本の椿は冬にも使うけれど、やはりこの季節にこそいけてみたいと思う。いけばなを構成する、線、色、塊の要素を全て満たしている花材のひとつということ、そして、それによって幅広い表現が可能であり、またこの季節になると椿の花も使える種類が増えてくるからだ。
世界中で同じ日英併記の教科書を使っていけばなの基礎を勉強する組織に身を置いているが、10年ほど前、新家元になりその教科書の改訂が検討された。新しい教科書がまだ発行される前に、新しく付け加えられたいくつかのテーマが発表され、海外の支部にも伝えられた。
早速いろいろな質問がきた中に、どこの国からだったかは覚えていないが(花ものでいける)というテーマに対して「花首の上からを使っていけるという意味か?」というものがあった。その時私は、単なる言葉の上の問題だけでなく、背後にあるものに思いを馳せたのだった。
線(枝または茎)の先にあるのが花であるから、作品として空間に花を置くには当然花の下から茎や枝が続いていなくてはならない。私はその時、漠然とではあるが、この質問者は日本で椿が咲いている光景を見ていないのだろう、と感じた。沢山の植物の中から、何でとっさに椿と思ったのかはもうはっきり思い出せないが、そのころ、ニュージーランドだったかオーストラリアだったかで椿の花が一本の木に数え切れないほど沢山咲いていて、およそその枝など感じさせないように見事なさまを見たからかもしれない。
一方日本なら、椿が落ちている木を見上げれば、椿の枝が宙に張っていて風がその枝を揺らしている、といった光景が見られる。また、神社などで葉の密集した椿の木が昼でも薄暗い空間を作り出していることもある。
いけるときは枝の微妙な曲線で流れを強調したり、黒っぽい緑の葉をたくさん集めてマッスにしてボリュームを感じさせたり、そして一輪を暗示的に、また象徴的にいけたりもできる。日本の椿は数々の物語を生む可能性を秘めている。そんな気配を少しでも感じられる花がいけられたらと思い、春の到来とともにまた椿を手に取るのである。(光加)