今月の季語〈二月〉 花を待つ
去年の桜のシーンを思い出そうとすると、一昨年までの桜の記憶が入り交じって現れます。風も無いのにはらはらと散り続け、花吹雪が豪勢に空をゆく、というところを見損ねたからかもしれません。見届けられなかったという思いが、こんなに後をひくものであったとは。
とはいえ去年も桜はたしかに満開となり、花びらをふぶかせました。見る側の私たちが、緊急事態という耳慣れない語に気もそぞろになっていたのでしょう。吟行も句会もできない日々でもありました。
今も尚ゆゆしき事態にありますが、今年も花を待つころあいとなりました。待つ分にはいつからでも待てるわけですが、季感が十分に働くのは、立春のころからでしょうか。〈花を待つ〉は歳時記には立項されていないことが多いのですが、春の季語です。
働いて睡りてふたり花を待つ 黒田杏子
作者は共稼ぎの暮らしを定年まで続けた人。労働と睡眠のほかに、食事や入浴等々、生きてゆくために必要な行為は多々ありますが、超多忙につき、家は寝るためだけに帰る場所であったのかもしれません。そんなことを思わせる語の選択ではないでしょうか。それでも「花を待つ」こころは瑞々しく抱き続けているというのです。
同じ作者が八年後にはこう詠んでいます。
花を待つずつとふたりで生きてきて 黒田杏子
夫婦になってからの歳月が、それ以前の歳月と長さが逆転すると、なんらかの感慨にとらわれるものですが、それが更に継続すると「ずつと」といえるようになるだろうか、と未だその境地に達しない私です。作者が七十五歳になる年の作。
〈花を待つ〉句を歳時記の中で拾うためには、〈花〉の項を丹念に読んでゆくほかはないのですが、ほぼ同義の季語があります。まず〈桜の芽〉。〈木の芽〉の傍題になっていることが多いです。
あかあかとものの初めの桜の芽 今瀬剛一
日の差して桜となる芽葉となる芽 村上喜代子
前句は火種のように芽を描き、いずれ燃え出す(=咲く)ことに心を馳せています。後句は花芽と葉芽の別を指摘し「あ、これはやがて咲く芽だ」と、たしかに花を待っています。
万年筆の中に泉やさくらの芽 正木ゆう子
さくらの芽はげしさ仰ぎ蹌(よろめ)ける 石田波郷
前句は卓抜な取り合わせの句。いずれも「噴出する」イメージでもって詠まれているのではないでしょうか。
また、待っていた花が咲いたという喜びを表す〈初花〉〈初桜〉も「待つ」感覚を揺曳させている季語といえましょう。
初花を待てるばかりの並木かな 松田美子
この並木は「花を待つ」段階にあります。
初花を木の吐く息と思ひけり 本宮鼎三
人はみななにかにはげみ初桜 深見けん二
木が息を吐くときどんな音を洩らすのでしょう。この音はひとりでも聴きとめられる音です。心さだかに耳を澄まそうではありませんか。(正子)