今月の季語(八月) 秋の風(2)
立秋を過ぎても、風を〈秋〉とは到底思えぬ昨今です。夕方になれば「夕風が立つ」かもしれぬと、はかない願いを抱いてもみるのですが。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる 藤原敏行『古今集』
早くおどろきたいものです。せめて先人の句を読みながら、秋風の記憶をたどってみましょう。
あかあかと日はつれなくもあきの風 芭蕉
※原句の「あかあか」にはくりかえし記号が使われています。
石山の石より白し秋の風 芭蕉
つる草や蔓の先なる秋の風 太祇
芭蕉の一句目、あかいのは「日」ですが、風もあかく熱をもっているように感じます。二句目は白秋の風です。五行では白は秋の色です。視覚でとらえていますが、肌触りもさっぱりしていそうです。
太祇の句も視覚の風でしょう。「蔓の先」以外は動いておらず、先だけがあるかなきかの風をとらえているのです。背景には秋の青い空が広がっていそうです。
夜もすがら秋風聞くやうらの山 曽良
秋の風三井の鐘より吹き起る 暁台
一晩中裏山に風が鳴っていたとは、曽良は風音に寝付けなかったのでしょうか。〈初嵐〉かもしれません。
暁台は、三井寺の鐘が風に共鳴するのを聴き留めました。〈秋の初風〉と呼ぶ風ではないでしょうか。
十団子(とおだご)も小粒になりぬ秋の風 許六
淋しさに飯をくふなり秋の風 一茶
許六の句を芭蕉は「此句しほり有」と評したそうです(『去来抄』)。〈秋の風〉の「あはれ」をさらりと表現した手腕を褒めたとされます。食べ物で「あはれ」を表すとは、和歌にはあり得なかったことです。ただ現代の私たちには、このくだりは理解しづらいかもしれません。
一茶の句は、食が細らないところが俳諧的ともいえましょうが、理屈をこねなくても分かる句です。食べて紛らわせることならば、私たちも日常的にやっていそうです。
食べ物との取り合わせの句を挙げてみましょう。
秋風や鮎焼く塩のこげ加減 永井荷風
秋風や甲羅をあます膳の蟹 芥川龍之介
あきかぜや皿にカレーを汚し食ふ 櫻井博道
食べ物の句は視覚嗅覚のほかに、必ず味覚が発動しますし、聴覚や触覚も動員されるでしょう。おのずと身体全体で捉えて詠むことになりそうです。
死骸(なきがら)や秋風かよふ鼻の穴 飯田蛇笏
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ 石田波郷
秋風の「あはれ」といわれて咄嗟に思い出すのはこれらでしょうか。
遠くまでゆく秋風とすこし行く 矢島渚男
うしろより来て秋風が乗れと云う 高野ムツオ
多く行ったり、乗ってしまったりしたら、どこへ行きつくことやら。
あきかぜにいちいちうごくこころかな 池田澄子
秋風や柱拭くとき柱見て 岡本 眸
この秋は、琴線に触れたものを「いちいち」書き留めてみることにしましょうか。(正子)