〈冴ゆ〉はキーンと音がするほど寒い様子を表す冬の季語です。立春を過ぎ、少しは暖かくなってきたようにも感じるころ、再び〈冴ゆ〉状態になることを〈冴返る〉といいます。「返る」は「戻る」の意。春の季語です。
普段の暮らしの中で「冴えている」と言うとき、濁りがなく際立っている、とか、鮮やかであるという意味を籠めるように、季語の〈冴ゆ〉(冬)や〈冴返る〉(春)には寒さのみならず、色や光を際立たせる働きがあるようです。
真青な木賊の色や冴返る 夏目漱石
冴返る二三日あり沈丁花 高野素十
翻然と又敢然と冴返る 相生垣瓜人
漱石の「木賊(とくさ)」はいつにもまして青々と鋭く、素十の沈丁花はいよいよ清らかに香りたつようです。翻然はひるがえるさま、敢然は思い切ったさまを表す語ですから、暖かくなったと人を油断させておいてなんとまあ鮮やかに冷えてくれたことか、と瓜人は呆れているのでしょうか、怒っているのでしょうか。
冴え返るとは取り落すものの音 石田勝彦
音も響きそうです。取り落したのは、久しぶりに手が悴んだせいでしょうか。気に入りのグラスが見事に割れてしまったのかもしれません。
冴えかへるもののひとつに夜の鼻 加藤楸邨
夜になってますます冷え込み、その空気の出入りする鼻が冷たい、痛いと感じることは誰にもあるでしょう。ふと触れた鼻が冷たいことも。楸邨は面長でやや鼻が目立つ風貌をしておられました。自らのカリカチュアであるような詠み方に、思わずくすりと笑ってしまいます。
〈冴返る〉と同義の季語に〈余寒〉があります。春になったのに残っている寒さのことです。余寒の余は余韻の余。寒いとはいえ、冬の寒さとは違うことを、体のどこかで感じているのかもしれません。
鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子
南都いまなむかんなむかん余寒なり 阿波野青畝
どちらも地名が詠み込まれています。鎌倉の人々は奇襲に遭ったように驚いたのかもしれません。南都は奈良のこと。「なむかん」は「南無観世音菩薩」。東大寺二月堂で執り行われる「水取(修二会)」で練行衆が「なむかんなむかん」と声明を唱えているのです。
水取や氷の僧の沓の音 芭蕉
かつて芭蕉がこう詠んだように、水取のころの南都は冷えるのです。
橋の灯の水に鍼なす余寒かな 千代田葛彦
「鍼(はり)なす」とは美しい表現です。ちらちらと揺れる水のさまが見えて来そうです。
視覚や聴覚にも訴えて来る寒さを、さて今年はどう詠みましょうか。(正子)