梅雨のころから台風が到来する昨今です。しかも来れば必ずといってよいほど列島を縦断し、隙をつくように新たな被害をもたらします。まるで人間の浅智恵を嘲笑うように。
台風を充ちくるものゝ如く待つ 右城暮石
先んじて風はらむ草颱風圏 遠藤若狭男
颱風の白浪近く箸をとる 山口波津女
暮石は接近中の台風の威圧感を全身全霊で受け止めているようです。逃げようもなく、また挑みようもないものを「待つ」と表現し、刻々と濃くなる存在感を表しています。どこか期待感に通じる感覚かもしれません。
台風には風台風も雨台風もありますが、いずれの場合も先払いのように吹いてくる強い風があります。若狭男は颱風の圏内に入ったことを草の姿態で感じ取っています。どちらの句も怖がっているわけではありませんが、台風を強く意識しています。
対して波津女(山口誓子の妻)は台風が来てしまう前に食事を済ませておこうとしています。人の営みが滞らないように、さまざまな準備を整えてもいることでしょう。台風より日々の暮らしのほうに意識が向いています。さ、あなたも、と誓子も妻に促されて食事をとったかもしれません。
台風はtyphoonの音に漢字を当てていることからも明らかなように、比較的新しい季語です。対して〈野分〉は王朝和歌にも登場している歴史を感じさせる季語です。文字通り野を分けて吹く秋の暴風のことですが、風台風のことだと捉えても間違いではないでしょう。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな 蕪村
野分中つかみて墓を洗ひをり 石田波郷
吹かれ来し野分の蜂にさゝれけり 星野立子
何か事件があったのでしょうか。画家でもあった蕪村は、緊迫感を視覚的に描いています。
波郷が洗っているのは親しい人の墓石でしょうか。つかんで洗うという荒々しい振る舞いが二人の親密度を表しているようです。野分を突いてその日に来なければならない理由があったに違いありません。
立子の句は、蜂にさされたといいつつどこかユーモラスです。蜂も当惑して八つ当たりするしかなかったのかもしれません。
おとろへし親におどろく野分かな 原 裕
野分来ることに少年浮き浮きと 岩田由美
かつては私も、台風接近中の父母の行動に大人への憧れのような感情を抱いたものでした。おそらく裕もそうだったのでしょう。時を経て、密かに着々と進行していた親の「おとろへ」に気づいてしまったのです。
かつての少女も、周囲のいつもとは異なる慌ただしい雰囲気に、客人を待つような昂りを覚えたものです。少年と感じ方が異なっていたかどうかは、少女でしかなかった私には本当のところは分かりませんが、句としては、いずれ「波津女」の立場となる少女より少年のほうが「浮き浮き」の純度が上がる気もします。もっとも今後のジェンダー差については与り知りませんが。
長靴に腰埋め野分の老教師 能村登四郎
脚をすっぽり覆うほどの長さかもしれません。職業によっても野分感が異なりそうです。
家中の水鮮しき野分あと 正木ゆう子
「野分あと」は台風一過のこと。「家中の水」の捉え方に鮮度があります。
台風も野分も天文の季語ですが、時候の章にも類する季語があります。
島畑のかんかん照りや厄日前 岸田稚魚
田を責める二百十日の雨の束 福田甲子雄
〈二百十日〉は立春から数えて二一〇日目、今のカレンダーでは九月一日ころを指します。早稲の花が咲くころにあたり、農家は大風大雨を恐れました。〈厄日〉ともいいます。できる対策はすべて施し、あとは祈るだけという気持ちがひしひしと伝わってきます。(正子)