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カテゴリーアーカイブ: 今月の季語

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今月の季語〈十月〉 秋の野

caffe kigosai 投稿日:2023年9月20日 作成者: masako2023年9月22日

ようやく〈秋暑〉を口にしあうほどに秋めいてまいりました。つまり、いまだに暑い暑いと人はかこちあっています。が、見渡せば〈秋草〉が次々に花を掲げ始めています。顧みれば極暑の候にも、萩が走り咲き、葛が鉄塔を猛然と這い登っていました。桔梗の初花も早かったですし、水引草も繁茂していました。秋草は花のイメージこそ楚々としていますが、実はなかなかの強者であるのでした。

東塔の見ゆるかぎりの秋野行く      前田普羅

薬師寺の東塔でしょうか。塔の存在を常に確かめながら野を進みゆく作者です。塔のほかに草木や空、雲が目に入っていることでしょう。そうしたすべてから秋の野を実感しているのです。

日陰ればたちまち遠き花野かな      相馬遷子

花の有無にフォーカスするときは〈花野〉を使います。秋の七草のように名前の定かな花というよりは、とりどりさまざまに咲き乱れているイメージでしょうか。

大花野わが思ふ母若くして           小川濤美子(なみこ)

作者の母は、

曼珠沙華抱くほどとれど母恋し     中村汀女

と詠んだ汀女です。濤美子の句は、花の名を指定しない〈花野〉の茫漠とした印象を生かした例と思います。

はじめより一人花野をどこまでも    櫻井博道

夕花野はてしなければ引き返す      池田澄子

ひとりづつ人をわするる花野かな    井上弘美

果てしなく広く、深く入りすぎると戻れなくなる場所でしょうか。

友情をこゝろに午後の花野径         飯田蛇笏

蛇笏の花野ならば、午後のまだ日のあるうちならば、大丈夫かもしれません。

山姥となりて入りゆく花野径         齋藤愼爾

いやいや決して油断はならないようです。茫漠とした印象なればこそ、さまざまな詠み方ができるのかもしれません。

をみなへし又きちかうと折りすすむ  山口青邨

花野といわずに花野を詠んだ句ともいえましょう。指定された色は黄と紫ですが、他の色の花もきっとと思わせられます。

わが行けばうしろ閉ぢゆく薄原      正木ゆう子

作者は薄ばかりで覆われた野を漕ぐように進んでいます。さながら生き物の胎内に入りゆく心地でしょうか。

秋草を活けかへてまた秋草を         山口青邨

死ぬときは箸置くやうに草の花      小川軽舟

〈秋草〉と同義のはずですが、似て非なるものといいたくなる季語に〈草の花〉があります。前の句は秋草としかいっていませんが、活けるに足るしっかりした草本でありましょう。対して軽舟のほうは、名前はあっても知らないし、調べようともしない草。それが花を付けているのでしょう。季語の機微のようなものを大切に、詠み分けたいものです。(正子)

 

今月の季語(9月) 秋の海

caffe kigosai 投稿日:2023年8月17日 作成者: masako2023年8月17日

海無し県に生まれ育った私にとって、子ども時代の海は、海水浴に旅行の支度をして行く場所でした。同じくらいの年回りの子が海沿いの家から水着のまま飛び出してくるのを見かけては、羨ましく思ってもいました。その後も海よりは山、というより丘陵と縁が深く、多摩丘陵の一角に住みついて四半世紀になろうとしています。

そういう私ですが、昨年突如として海にご縁ができました。八月の終わりに松山へ赴いたあと、高松へ移動し、フェリーで男木島、小豆島、直島を回りました。ちょうど瀬戸内国際芸術祭の開催期間中で、野原にダイダラボッチ(のような巨大な作品)が脚を投げ出していたりして、日常とはまるで違う空間を味わうことになりました。新型コロナ禍から解放され切っていないころでしたので、人混みとは無縁の、のびのびした旅にもなりました。

《 瀬戸内の旅2022 》  髙田正子

高松へ

おつとめを果して秋の旅半ば

夕凪やいそひよどりの来る時刻

風音の中に波音星月夜

男木島

人形に雲見せてゐる花野かな

小豆島

昼顔や棚田に余る水の音

野にあればおのづと月を待つこころ

月白や潮干の径を鳥居まで

直島

ひらひらと沖を抜け行く白雨かな

睡蓮の花の切先閉ぢあへず

夏と秋が行きあう頃合でしたので、季語も行ったり来たりするにまかせました。瀬戸内に詳しい知人とふたりきりで回りましたので、安心してリフレッシュできた反面、作句のほうはほったらかしになりました。これらの句は、帰りの新幹線の車中で、もう忘れたなあとぼやきながらまとめたもの。やはり現地で句会をしたいものだと、今年は身近な方々に声をかけてみたところ、小さな句会ができる人数となりました。

秋の航一大紺円盤の中         中村草田男

「秋の海」という季語が使われているわけではありませんが、まずこの句を思います。今年は台風がのろのろと通り過ぎたあとでもあり、被害がなかったのならよいけれど、と気になります。

一つ島沖に浮かべて秋の潮    能村登四郎

大海原に乗り出すわけではありませんから、こちらの景が近いかもしれません。港を出てしばらく航くと、さっきまでいた陸地が島に見えてくることがあります。昨年は、航路の角度が変わるたびに島と見紛う山がありました。屋島です。調べてみると、江戸時代までは確かに島だったとか。那須与一が急に身近に感じられてきました。

秋の浪見て来し下駄を脱ぎちらし     安住 敦

今年は島に泊まります。豊島に新しくオープンした施設があり、運よくお借りすることができました。相部屋になる都合もあって、男性は高松泊まりに。女子会のような雰囲気で、下駄を脱ぎちらしてみるのも良さそうです。

波音が月光の音一人旅               坪内稔典

一人で出て瀬戸内で仲間と合流します。さて今年はどんな海の旅になるでしょうか。またいずれご報告できれば幸いです。(正子)

今月の季語(八月) 秋の雲

caffe kigosai 投稿日:2023年7月17日 作成者: masako2023年7月19日

立秋を過ぎても暑さはおさまりませんが、空の色と雲の形がどことなく変わってきます。秋は風の音からと詠んだ古人もいますが、雲の様相から、といってもよい気がしています。

まず雲のキャンパスである空の句から読んでいきましょう。

秋空や高きは深き水の色             松根東洋城

秋空へ大きな硝子窓一つ                            星野立子

東洋城の空は深みがあって透き通った色です。空と線対象になった深い水まで見えてきそうです。立子の句は、外からの視線であれば、硝子窓に空が映っているでしょう。内からであれば、きれいに磨かれた硝子窓が切り取る空です。どちらの視線も、澄んで明るい空を捉えています。現実の秋の空は、晴れることもあれば雨雲に覆われていることもありますが、季語の「秋の空」はいつも爽やかに晴れ渡っています。

上行くと下くる雲や秋の天                       凡兆

秋空や展覧会のやうに雲                           本井 英

この二句には雲が登場しますが、主役はやはり空です。雲が上と下ですれ違えるほど高い空です。また、展覧会の絵のように、雲をいくつも展示できる広い空なのです。高く広く澄んだ空に浮いたり、漂ったりするのが「秋の雲」です。

ねばりなき空にはしるや秋の雲               丈草

噴煙はゆるく秋雲すみやかに                   橋本鶏二

台風一過の空を寝不足の目で見上げた朝、丈草の句を思い出したことがあります。鶏二の句は、同じような白さで空にあっても、動きが違うといっているのでしょう。

秋の雲立志伝みな家を捨つ                                   上田五千石

前の二句とは質感も情感も異なりますが、志を胸に身一つで、と考えますと、これもまた軽やか。「蟾蜍長子家去る由もなし 中村草田男」と合わせて読むと「家」の重さを実感します。

「秋の雲」は総称ですから、何雲を指してもよいはずですが、鰯の群れのようであれば「鰯雲」、鯖の背の模様のようであれば「鯖雲」、羊の群れのようであれば「羊雲」とその名を呼ぶでしょう。

鰯雲人に告ぐべきことならず                               加藤楸邨

妻がゐて子がゐて孤独いわし雲                           安住 敦

鰯雲甕担がれてうごき出す                                   石田波郷

楸邨も敦も暗い目をして雲に対しているのでしょうか。波郷の「甕」は野辺送りの甕でしょう。それに対して、

鰯雲鰯いよいよ旬に入る                                       鈴木真砂女

ああそうか昼食(ひる)は食べたのだ鰯雲       金原まさ子

こちらのあっけらかんとした生活感はどうでしょう。

鯖雲に入り船を待つ女衆                                       石川桂郎

鯖の背の斑紋を連想させる鯖雲が出現するのは、秋鯖の漁期と重なるのだとか。この句はまさにその景を示しています。

牧神の午後はまどろむ羊雲                                   高澤晶子

羊の群れのようだと空を仰ぎ、きっと良い天気なのでしょう、牧神のいねむりを想像しています。秋の空は広く、雲は軽やか。現実から空想まで、いろいろに詠み分けてみませんか。(正子)

 

今月の季語(七月) 夕立

caffe kigosai 投稿日:2023年6月17日 作成者: masako2023年6月20日

〈七月〉は水の無い月であるはずなのに、昨今は水の印象が強くなっています。梅雨が長引いたり、早々に台風が来てしまったり、頻繁にゲリラ豪雨に襲われたりするからかもしれません。昼間は晴れて暑く、午後雲行きがあやしくなり、一雨のあとはすかっと涼しく、という昔ながらの夏の一日を懐かしみつつ、今月は「夕立」の句をたっぷり読んでみましょう。

祖母山も傾山も夕立(ゆだち)かな                     山口青邨

まずはこの句から。祖母山は大分、熊本、宮崎の三県にまたがる山です。傾山はその前山、大分と宮崎の県境にある祖母山系の山です。青邨はこの句の自註に「そぼさん」「かたむくさん」とルビを振っていますが、一般に傾山は「かたむきやま」「かたむきさん」と呼ぶようです。

昭和八(1933)年、仕事で鉱山を訪ねた帰り、道が悪いので馬のほうが楽だといわれ、「杣人についてもらってぱかぱかと歩いた」のだそうです。

「そのうちに山の方は空模様が変って夕立雲が祖母山をおおいかくした。見るまに傾山も見えなくなった。雲は真黒く、雨脚が見えて夕立が烈しく降っているようであった。この光景は雄壮であった。」

馬上で何度も振り返りながら眺めていた青邨でしたが、あっという間に雨に追いつかれてしまったとのこと。

さつきから夕立の端にゐるらしき                      飯島晴子

夕立は一塊の生き物のようです。このとき晴子の頭上は半分青かったかもしれません。照ったり降ったりする中を歩きながら、「端」にいるのかも、と思ったのでしょう。

法隆寺白雨やみたる雫かな                                      飴山 實

白雨は夕立のこと。視界が白く閉ざされるほどの雨です。法隆寺で激しい降りに見舞われた作者は、堂塔のどこかで過ぎ去るのを待っていたのでしょう。案の定ひとしきり降ったあと、すっきりと雨が上がり、庇から落ち続ける雫には、日が差してきているようにも感じます。

薬師仏白雨はゆめのごと過ぎし                        鍵和田秞子

「平泉 七句」と前書があります。となれば「ゆめ」とは〈夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉〉の夢を受けているでしょう。白雨は鬨の声のように激しく、束の間に過ぎたのかもしれません。七句の内にはもう一句〈白雨去り日の一すぢを光堂〉と白雨の句があります。

東京を丸ごとたたく夕立かな                                     渡辺誠一郎

前の句は、東京の人が詠んだみちのくの句ですが、こちらはみちのくの人が詠んだ東京の句です。上京の折に見舞われたのでしょう。高層ビルの間にまっすぐに立つ白い雨脚、舗装され尽くした地を打つ音、――みちのくの夕立とは異なるものであったに違いありません。

夜を叩いてスコールの通りけり                         倉田紘文

すみずみを叩きて湖の驟雨かな                       綾部仁喜

〈スコール〉〈驟雨〉は夕立の傍題です。スコールは熱帯地方の驟雨のことですが、今や降れば必ずスコール状態の日本です。驟雨はすでに元禄(江戸時代)のころには用例の見られる語ですが、どちらの句も極めて現代的な景に思えて来るのは、音の響きによるでしょうか。

夕立は傍題の多い、つまりそれだけ暮らしになじんだ季語です。表記や音の響きを選んでとりどりに詠んでみましょう。(正子)

 

今月の季語(6月)六月

caffe kigosai 投稿日:2023年5月16日 作成者: masako2023年5月16日

今年の三月には、三月と如月、弥生について記しました。今月は六月と皐月、水無月について押さえましょう。

〈六月〉はカレンダー通りに六月のことです。旧暦五月の異称〈皐月(さつき)〉がほぼ六月にあたります。

笠島はいづこさ月のぬかり道         芭蕉

山越えて笛借りにくる早苗月         能村登四郎

芭蕉の句は『おくのほそ道』所収。「このあたりで無念の死を遂げたという実方中将の墓はどこだろう」というもの。道がぬかっていたのは〈さみだれ〉のせいでしょう。二句目の、笛を借りにというのは〈早苗饗(さなぶり)〉の供応に使うためでしょうか。

五月にも「さつき」の読みはありますが、六月を指すときに使用するとかなりややこしいことになります。皐月を当てるか、いっそ早苗月が私には好ましく思われます。

六月の女すわれる荒筵               石田波郷

六月の万年筆のにほひかな           千葉皓史

「焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、空缶に活けた沢瀉がわずかに女を飾っていた」と波郷が自解しています。放心状態でへたりこんでいる様子が読み取れます。万年筆のインクの匂いも湿気の多寡で変わりそうです。降り続く雨にインクが匂い立ち、それを好ましく思う作者なのではないでしょうか。

旧暦六月の〈水無月〉は文字通り水の無い月、つまり梅雨明け後を指します。今の暦であれば、七月を思えばよいでしょう。

水無月の逆白波を祓ふなり           綾部仁喜

みなづきの酢の香ながるゝ厨かな     飴山 實

水無月には川開きや海開きがあります。逆白波を祓うのは、この夏の平穏を祈るためでしょうか。口当たりのよい酢の物が欲しくなり始めるのもこのころかもしれません。あるいは食べ物の傷みを防ぐために利用する酢と捉えてもよさそうです。作者は醸造学の研究者でもありました。

六月は二十四節気では〈芒種(ぼうしゅ)〉と〈夏至〉にあたります。芒(のぎ)はイネ科の植物の種の外殻にある針のような突起のこと。今年の芒種は六月六日、夏至は二十一日です。

芒種はや人の肌さす山の草           鷹羽狩行

大灘を前に芒種の雨しとど           宇多喜代子

一句目は、芒(のぎ)→棘→刺すの連想でしょう。若草が青草となり、茂りを成してゆく時期です。灘は流れが速くて航海が困難な海のこと。そこへ太い雨脚が刺さり続けているのでしょうか。なかなか厳しい景です。

夏至の日の手足明るく目覚めけり     岡本 眸

地下鉄にかすかな峠ありて夏至              正木ゆう子

どちらも「違い」に気付いた句ですが、眸の句は健やか、ゆう子の句は少し病んだ匂いがします。

さて、今年の六月をどの角度から楽しむことにしましょうか。(正子)

今月の季語(5月)牡丹と芍薬

caffe kigosai 投稿日:2023年4月18日 作成者: masako2023年4月18日

牡丹

芍薬

「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」は、古来美人の形容に使われるフレーズですが、百合はさておき、芍薬と牡丹を見分けることができますか?

どちらもボタン科の植物で、牡丹は花の王、芍薬は花の宰相と呼ばれます。品種も多く、花だけを見て区別するのはなかなか難しいです。

芍薬を牡丹と思ひ誤りぬ                    寺田寅彦〈夏〉

寺田寅彦は、物理学者にして洒脱なエッセイでも知られ、俳句にも一家言あったお方。その先生がかような句を作っておられました。ちょっと安心? 私は専門家ではないので、アヤシイことも書きそうですが、たぶん見分けられてい(ると思ってい)ます。私なりの見分け方を先人の俳句とともにお届けしましょう。

まず、牡丹は木、芍薬は草です。

かたまりて芍薬の芽のほぐれそむ    五十嵐播水〈春〉

芍薬は草ですから冬には地上から消えて無くなります。が、多年草ですから、季節が巡ってくると土中から芽を出します。芍薬の芽は土から現れ出るのです。

ほむらとも我心とも牡丹の芽            高浜虚子〈春〉

対して、虚子が見つめている牡丹の芽は、枝先に噴き出した真っ赤な芽です。落葉して冬の間は「枯木」ですが、地上には確と存在しますし、年々枝を張って大きくなってもいきます。

音もなくあふれて牡丹焚火かな       黒田杏子〈冬〉

毎年十一月に須賀川の牡丹園で行われる牡丹供養の句です。木であるからこその、炎の供養です。

次に、咲く時期ですが、関東圏に住む者の感覚であるとお断りしたうえで申しますと、牡丹はGWには散ってしまいます。芍薬はもう少し後。五月半ば過ぎに莟を愛でたこともあります。

母の日の更に芍薬ひらきけり         百合山羽公

芍薬のつんと咲けり禅宗寺           一茶

数行前に「莟」と書きましたが、芍薬はつんとした「莟」、対して牡丹はどっしりと丸い「蕾」というのが私の感覚です(品種が非常に多く、当てはまらないことも)。一茶の「つんと」に力を得た思いですが。

左右より芍薬伏しぬ雨の径           松本たかし

先端に花を付けた芍薬の茎は健やかな緑色、牡丹は花を支えている新しい茎は緑色ですが、本体は木ですから、途中までは木質の色をしています。たかしの句の、左右より伏して芍薬が見せているうなじは、美しい翡翠の色をしていることでしょう。

慣れてくると葉の形が明らかに違うことにも気づきます。葉といえば、牡丹にそっくりな葉をした草があります。

鯛釣草たのしき影を吊り下げて   山田みづえ〈春〉

ある年、東京・上野の牡丹園で、隣り合って咲く牡丹と鯛釣草(華鬘草)の、花の形がこれほど違う(鯛釣草はケシ科の多年草)のに葉がそっくりなことに驚いたことがあります。

専門家がご覧になったら噴飯ものの見分け方に違いありませんが、こんな感じに気ままに楽しんでいます。今年は牡丹王、芍薬宰相の花期も早まりそうですが、艶姿を見逃さぬよう。

芍薬の後ろ姿が気に入らぬ                鳴戸奈菜

この世から三尺浮ける牡丹かな            小林貴子

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに        森 澄雄   (正子)

 

今月の季語(4月) 辛夷・片栗の花

caffe kigosai 投稿日:2023年3月18日 作成者: masako2023年3月20日

辛夷の花も片栗の花も、四月の季語として掲げるにはいささか遅いのですが、今回は、俳句においては掟破りとされる季節を戻すことをさせてください。

三月十四日、訃報をひとつ受けました。私は東京・国分寺市の殿ヶ谷戸公園にいました。実は公園に入る前に、きごさい理事長の長谷川櫂さんから「本当か」という問い合わせを着信していました。ガセであってほしいと祈りながら、公園内をぐるぐる巡っているところへ届いた、確かな筋からの知らせでした。

師・黒田杏子急逝の報に、綺麗だなあと仰いでいた空の色が違って見えました。黒い画用紙の上に青い絵の具を塗ったような色。青くはあるのですが、冥いのです。こころ次第で見え方が変わることを、こころならずも実感しました。

殿ヶ谷戸公園には二月にも来ていて、そのときには節分草が咲いていました。

ふたり棲む節分草をふやしつゝ               黒田杏子『一木一草』

節分草白光(びやつくわう)金とむらさきと 同   『日光月光』

母のこゑ節分草の咲くころね              同

節分の名のとおり、冬と春のあわいに咲き出し、ほんの一週間ほどで再び地上から消えます。多年草なので地下で命をつなぎ、一年後にまた現れるのです。「節分」は冬の季語ですが「節分草」は早春の花、歳時記にも春の部に収められています。

近付いてよくよく見ると、まさに二句目のさまであることがわかります。知る人ぞ知るタイプの植物ですから、第一句や第三句のように、人と取り合わせて詠むのもよさそうです。

庭園の方から、同じ斜面に三月には片栗が咲き出すと聞いていましたので、何はともあれ、片栗の斜面を目指そうと、その日は入口から直行したのでした。

かたかごの雨に跼めば男老ゆ               黒田杏子『木の椅子』

かたかごの斜面を満たす山の音    同   『水の扉』

私には何の音も聴き留められませんでしたが、ほつほつと咲き出した紫の花に向き合いながら、お目にかかる前の若い先生の姿を想像していました(『木の椅子』『水の扉』は第一、第二句集です)。

殿ヶ谷戸公園は武蔵野崖線の高低差を利用して作庭されています。片栗の斜面をあとにして、竹林を抜け、暖かな日差しの丘を登りにかかりますと、それはそれは見事な辛夷の大木が。

こぶし咲き満ちたるのちを発たれしと 黒田杏子『日光月光』

飯田龍太夫人への悼句です。そのまま今の私のこころだと思いました。

辛夷との出会いを描いた先生のエッセイがあります。

「ある朝学校に向かっていつもの道を行きますと、雪をかぶったようにまっ白い木が目の前に立っているのです。きのうはなかった、不思議な気持ちで木の下を通り抜けました。帰り道で一緒に歩いていた子供たちが「コブシ、コブシ」とさけんで今朝の高い白い樹に向かってかけ出しました。」(「辛夷の咲く日」『黒田杏子歳時記』)

心ひかれる花の名を知ることは、幼子がことばを獲得するときに似ています。「日本列島櫻花巡礼」で知られる先生ですが、発たれたときのまなうらには、辛夷の白い花があったのではないかと思われてなりません。(正子)

 

今月の季語(3月)三月(2)

caffe kigosai 投稿日:2023年2月17日 作成者: masako2023年2月18日

〈三月〉はカレンダー通りに三月のこと。暖かな日も増え、春の気配がぐんと濃くなってきます。南北に長い日本列島ですから一律ではありませんが、頬に当たる風がゆるみ、雲は白く柔らかく、木々の芽吹きが始まって視界がほんわりと緑を帯びてきます。

いきいきと三月生る雲の奥                                    飯田龍太

三月や生毛生えたる甲斐の山                       森 澄雄

三月の甘納豆のうふふふふ                                    坪内稔典

 

龍太はこの句の自解に、春の甲斐を訪うならば三月がよいと記しています。その三月に甲斐を訪れたのでしょう。澄雄は笑い始めた山を「生毛」で表現しています。むずむずとくすぐったい感じが伝わってきます。稔典の句は口誦性が高く夙に有名ですが、まだ大笑いには到らないけれど含み笑いが止まらない、といった春の進み具合を読み取ってみたいと思います。

月のはじめには東大寺の〈お水取〉があります。耳にするだけでぶるっと厳しい寒さを連想します。が、月後半には「暑さ寒さも彼岸まで」を実感する気候となります。

水取りや氷の僧の沓の音                                        芭蕉〈行事〉

巨き闇降りて修二会にわれ沈む                            藤田湘子〈行事〉

毎年よ彼岸の入に寒いのは                                    正岡子規〈時候〉

春分や手を吸ひにくる鯉の口                                宇佐美魚目〈時候〉

彼岸会の若草色の紙包                                            岡本 眸〈生活〉

 

〈如月〉は旧暦二月の異称ですから、ほぼ新暦三月にあたりますが、衣更着(きさらぎ)の意を汲むと新暦の二月として使いたくもなる季語です。新暦と旧暦のずれについては一旦おくとして、新暦三月のはじめは〈如月〉の語感のままに鋭く、末には〈弥生〉の語感に近くなる、そういう感じ方もできそうです。

 

如月の水にひとひら金閣寺                                    川崎展宏

家建ちて星新しき弥生かな                                    原 石鼎

 

三月にはまた、昔は無かった制度が季語となったものも数多くあります。

 

一人づつきて千人の受験生                                    今瀬剛一

合格を決めて主審の笛を吹く                                中田尚子

一を知つて二を知らぬなり卒業す                        高浜虚子

卒業生言なくをりて息ゆたか                                能村登四郎

卒業の別れを惜しむ母と母                                    小野あらた

 

百人百様の卒業がありそうです。

悲しい記憶がそのまま季語となったものもあります。

 

青空でなくてはならぬ空襲忌                                 大牧 広

三・一一神はゐないかとても小さい                      照井 翠

三月十日も十一日も鳥帰る                                     金子兜太

 

空襲忌は〈東京大空襲忌〉、三・一一は〈東日本大震災忌〉です。〈三月十日〉〈三月十一日〉のみで季語として使えますが、兜太はあえて別の季語を立てています。三月十日は毎年巡り来る三月十日である以上に昭和二十年の三月十日であり、同様に平成二十三年の三月十一日なのでしょう。時間軸上には六十六年を隔てる二日がカレンダー上に隣り合って並ぶ、三月はそんな月となりました。さて、あなたの三月はどんな月ですか?(正子)

今月の季語〈二月〉 雛(2)

caffe kigosai 投稿日:2023年1月17日 作成者: masako2023年1月18日

雛祭は五節句(人日/七種、上巳、端午、七夕、重陽)の一つである上巳に、主に女の子の健やかな成長を願って行われる催しです。本来は旧暦の三月三日ですが、新暦で行うことのほうが断然多い昨今です。正月の松がとれると、百貨店等の雛人形売場は熱気を帯び始めます。祖父母世代がはりきりすぎると、

初雛の大き過ぎるを贈りけり   草間時彦

という次第となりますから要注意です。

テーマに〈雛〉を取りあげるのは二回目です。前回は〈雛〉の俯瞰を試みましたが、今回は恣意的主観的に季語が熟してゆく例を辿ってみましょう。昨年刊行した『黒田杏子の俳句』では一年を月ごとに追った第Ⅰ章の「三月」の項にまとめています。

雛祭は一年に一度巡ってきますが、ゆえに毎年詠み続けるのが難しくもなります。世につれデザインの変遷はあってもおおむねは昔のままに、また顔ぶれの入れ替わりはあっても近い関係で祝いますから、「去年も詠んだ句」になりかねないのです。

『黒田杏子の俳句』で句の分類のために設定した項目は「雛店」「寂庵」「母」でした。「雛店」とは東京・浅草橋に本店を置く吉德です。昭和六十(1985)年から「吉德ひな祭俳句賞」を開催しています。今年で三十九回。黒田杏子が一人で選者を務め、選者吟として3×39句を献じてきました。「寂庵」は先ごろ亡くなった瀬戸内寂聴師が嵯峨野に開いた庵。奇しくも同じ年の十一月から寂聴命名の「あんず句会」が本堂で始まり、全国各地から人が集まりました(2013年閉会)。

こうした巡りあわせは普通は無いでしょう。ですがさながら「行」を修めるがごとくに、選句と作句の両輪を弛まず回し続けることも常人にはしかねることです。

吉德ひな祭俳句賞選者吟に沿って何句か読んでみましょう。

第一回   雛かざるひとりひとりの影を曳き

第二回   寂庵に雛の間あり泊りけり

第四回   月山の雪舞ひきたり雛の膳

第六回   雛かざるいつかふたりとなりてゐし

第九回   なにもかもむかしのままに雛の夜

第十回   吹き晴れし富士の高さに雛飾る

第十一回  ととのへてありし一間の雛づくし

第十二回  雛の句えらみ了へたる余寒かな

第十六回  立雛やまとの月ののぼりきし

第十七回  母の一生(ひとよ)ひひなの一生かなしまず

第十八回  裏千家ローマ道場雛葛籠

第二十一回 雛の間に母のごとくに手を合はす

第二十三回 曾祖母の雛祖母の雛みどりごと(句集には「みどりごに」の形で掲載)

第二十四回 句座果てて月の嵯峨野の雛祭

第二十六回 父も母も大往生の雛の家(同「ちちははの大往生の雛の家」)

第二十九回 雛の句を選みて二十九年目

第三十回  雛店の三百年の十二代

第三十一回 ワシントンより届きたる雛の句

第三十二回 桃の日の母に供ふるかすていら

第三十六回 雛の間に座してしばらく兄と父

第三十七回 東京三月炎ゆる人炎ゆる雛

血縁を確かな軸としながら出会いを詠い、詠うことによって出会いを新たな血脈とする。季語と「一生」もまた両輪のように回り続けて豊かになってゆくものなのでしょう。(正子)

今月の季語〈一月〉 一月

caffe kigosai 投稿日:2022年12月17日 作成者: masako2022年12月17日

二〇二二年二冊目の単著となる『黒田杏子の俳句』を刊行しました。所属誌「藍生(あおい)」に一九年一月号から三年間連載したものを元にしていますが、最初から単行本化を想定していたわけではないので、改めて構成を考えた結果、前後の脈絡を整えることが編集作業の第一関門となりました。資料も整え直すつもりでしたが、「黒田杏子」の誕生日=八月十日までに、ということになり大慌て。手順を飛ばした感もありますが、のんびりしていたらまだ世に出ていなかったかもしれません。

書き足したかった項目もあります。その一つが「一月」です。句をピックアップしたら膨大な量となり、連載一回分には収まり切らなかったのでした。

皆さまの「一月」の作句量は多いですか? 私はたいへん少ないのです。ゆえに「出るわ出るわ」の状況に目眩く思いでしたが、理由もすぐにわかりました。かつて「藍生」には結社をあげてのロングラン企画「観音霊場吟行」があり、〈初観音〉のある一月には必ず吟行計画が組まれていたからです。

そういうわけで連載では(つまり本にも)「初」を分類の柱としました。本文に反映させることが叶わなかったのは次の季語です。

【元日】

ほろほろと酔うて机にお元日『日光月光』

【二日】

檜葉垣の内に句座ある二日かな『木の椅子』

二日はや千人針を刺す童女『日光月光』

【二日灸】

はじめての二日灸といふものを『日光月光』

【三日】

よく晴れて三日の坐り机かな『一木一草』

【四日】

毛衣の四日のをんな鬼子母神『木の椅子』

真間の井に四日の午後のわれのかほ『一木一草』

日の沈むまで鴨を聴く四日かな『同』

【五日】

死者のこゑとてなつかしき五日かな『花下草上』

【六日】

髪剪つて六日の風のあたらしく『一木一草』

六日はも鰥夫六輔六丁目『花下草上』

【七種】

七種や母の火桶は蔵の中『木の椅子』

あをあをと薺の粥を吹きにけり『同』

帯高く七種籠を提げてきし『一木一草』

吹きさます七種の粥天台寺『同』

寂けさの七種爪を剪りてのち『花下草上』

七種の粥いただきぬ百花園『日光月光』

薺摘む疎開者の母摘みしごと『銀河山河』

すずなすずしろはこべらもととのひぬ『同』

※〈七日〉〈人日〉の例はありません。

※〈二日灸〉〈七種〉は「生活」の季語ですが、並列させています。

月齢を季語として使う〈月〉(moon)の例もありますが、その月(month)が始まって何日目かを示す語が季語になることが面白いです。それを詠みこんで欠ける日が無いということに圧倒されたのでした。

〈小正月〉(女正月)(=十五日)や、地域性があるようですが〈二十日正月〉〈晦日正月〉を加えると、一月のひと月を通して日付で詠めます。

いかがでしょう。挑戦してみませんか? (正子)

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スタッフのプロフィール

飛岡光枝(とびおかみつえ)
 
5月生まれのふたご座。句集に『白玉』。サイト「カフェきごさい」店長。俳句結社「古志」題詠欄選者。好きなお茶は「ジンジャーティ」
岩井善子(いわいよしこ)

5月生まれのふたご座。華道池坊教授。句集に『春炉』
高田正子(たかだまさこ)
 
7月生まれのしし座。俳句結社「青麗」主宰。句集に『玩具』『花実』『青麗』。著書に『子どもの一句』『日々季語日和』『黒田杏子の俳句 櫻・螢・巡禮』。和光大・成蹊大講師。
福島光加(ふくしまこうか)
4月生まれのおひつじ座。草月流本部講師。ワークショップなどで50カ国近くを訪問。作る俳句は、植物の句と食物の句が多い。
木下洋子(きのしたようこ)
12月生まれのいて座。句集に『初戎』。好きなものは狂言と落語。
趙栄順(ちょよんすん)
同人誌『鳳仙花』編集長、6月生まれのふたご座好きなことは料理、孫と遊ぶこと。
花井淳(はない じゅん)
5月生まれの牡牛座、本業はエンジニア、これまで仕事で方々へ。一番の趣味は内外のお酒。金沢在住。
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