今月の花(八月) 朝顔
子供の頃、夏休みの宿題で朝顔の観察日記を付けた方もおいででしょう。朝顔は日本に昔からあり、江戸時代には様々な品種が作りだされて変化朝顔としてブームにもなり、今なお私たちの心をとらえて離さない花です。東京入谷の朝顔市は今年も7月6日から8日に開かれました。色も形も様々な花が並ぶ中、どの一鉢にしようか選ぶ人たちでにぎわったようです。
ある夏の一日、流派のスタジオでプロのカメラマンによる雑誌用の作品の撮影がありました。最後にもう一作自由にいけるようにといわれ、小さな花屋なら2,3軒分にも当たる花材の中から朝顔の鉢を見つけました。行燈づくりの絡んだ茎を外し、空色の花の朝顔を半透明のガラスの器にいけました。手の熱が伝わらないうちにと、それ!と勢いでいけたつもりが、どうも気に入りません。そしてその後、撮影の強いライトにさらされる花はシャッターが切られるまで耐えられるとは見えず、撮影を断念したのです。
利休の庭の朝顔が見事なので秀吉が行ってみると、すべて切られ、床の間にたった一輪の朝顔が咲き誇っていたという朝顔の茶会の話は広く知られています。利休の美意識について述べるとき必ずというほど引き合いにだされます。
けれども実際に賓客の席入りから退出までのごく限られた時間に究極の一輪を選ぶとなれば、蕾の開き具合、咲いてから萎むまで、と時間をまきもどす緻密な計算が必要です。庭にどんなにたくさん朝顔が咲いていても、正午を待たずにしおれます。秀吉が目にする時、一番美しく咲き誇っているものを探しこれでは駄目、あれも間に合わない、と消去すれば誇張ではなくて一輪の朝顔にたどり着きます。
そして蔓もまた重要です。
「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」加賀千代女のこの句をいま読むと彼女の優しさに思いがいきますが、千代女は朝顔の蔓の伸びる速さに驚いたのでは、と朝顔の観察日記を書いて数年後にこの句を知った中学生の私は思いました。朝顔をいけるときは蔓の線の曲がり具合と強さが花の位置を決めるのです。
小、中学生のころと比べ一年が過ぎるのが年々短くなっていく思いがします。観察日記をつけていたあの頃よりも、朝顔の花の上に過ぎる凝縮された時間に少しは沿うことができるでしょうか。花をいける経験もあの夏の上に積み重ねてきた今、改めて朝顔がいけてみたくなりました。(光加)