今月の季語(三月)水温む
〈水温む〉は、春になって河川や湖沼の水温が上がる現象をさす「地理」の季語です。もっとも水温が何度以上というデータが問題なのではなく、水辺の草や、水草が芽を出し、寒い間は底に潜みがちであった魚類が活動的になるなど、「水」まわりへの春の到来を表す季語と言えましょう。
水底に映れる影もぬるむなり 杉田久女
温む水には音のなき雨似合ふ 吉岡翠生
久女の句の「影」は光ととれば、春の陽光のこと。また、まわりの風物の陰影とも、久女自身の人影とも解することができるでしょう。春らしくなってきたなあと水を覗き込むと、底に自分の影が、なんともやわらかな風情に映っていたと読むのがもっとも自然でしょうか。
二句目は「雨」の音を介して聴覚でとらえた温み方です。確かに寒中の水であれば、カンカンと弾き返したかもしれません。「音のなき」という音で、気配であたりを包み込むのが春の水なのでしょう。
同義の季語に〈春の水〉があります。
昃(ひかげ)れば春水の心あともどり 星野立子
春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川 櫂
立子の句は向島百花園へ吟行に出向いた折の作です。先程迄あった日射しが消えてしまったら春水の表情が暗くなった、と句日記に記されています。「昃」に「ひかげる」という読みは実はありませんが、この句のおかげで(?)「昃る」例句は結構あります。
二句目には作者の自解があります。
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この世界にあるほとんどのものは水に濡れます。しかし、ただ一つだけ水にぬれないものがある。それが水です。水は水が触れたほかのものを濡らすけれども、自分自身は決して濡れない。
でも、春の水は水自身が濡れているような感じがする。濡れないはずの水でも春の水なら濡れるのではないか。そう思ったのです。 (『現代俳句の鑑賞101』)
「濡れる」も「濡らす」も雅語というわけではなく、日常的に普通に使う動詞です。が、作者の思いによって独自の詩語として立ち上がった一例でしょう。
ところで「俳壇」三月号(令2・3・1発行)を読んでいたら、うってつけの記事を見つけました。「波多野爽波の言葉」として岸本尚毅氏が記されています。
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三月の声を聞く頃ともなれば、私の許に送られてくる句稿には「水温む」という句が随分と沢山出てくるのだが、どうしたことか「水」に関わる言葉(もの)で詠われている句がまた実に多い。緋鯉だ、橋だ、舟だ、バケツだ、釣りだなどと、挙げだしたらキリのない程である。
句を作り始めて半年か一年ぐらいの方ならいざ識らず、三年、五年と俳句を作ってきてなお「水温む」という季題で「水」に関係あるものを詠っているのでは、些かがっかりさせられてしまう。(中略)季語が「ツキ過ぎ」であるほど、味気ないものはない。 (「青」昭57・4月号)
タイムリーに飛び込んできたこの爽波の言葉、ぜひ脳の片隅に留め置いてください。ちなみにこの特集「さらば!〈つき過ぎ〉」には私も駄文を寄せています。どこかで立ち読みなどしていただければ幸いです。 (正子)