今月の季語(6月)梅雨の月
二月から四月にかけてゆっくりと桜の季語を追いました。昨年の花どきを心穏やかに過ごせなかった悔いがあって、今年は桜前線を待ち受ける心づもりでいたのです。ところが現実の桜はあんまりなスピードで通り過ぎてしまいました。このご時世では追いかけることも叶わず、残念!
次は〈月〉を待ち受けてみませんか? 単に〈月〉といえば秋の季語ですが、幸い月は四季を問わずに仰げます。春には春の、夏には夏の月が上り、それらに対応する季語があります。秋本番ほど多くはありませんが、整理しながらゆっくり追っていきましょう。
夏もすでに仲夏ですが、〈夏の月〉は三夏通じて使えます。
蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉
市中は物のにほひや夏の月 凡兆
蛸壺に入っているのは明石の蛸です。明日の命も知らず、蛸壺に一夜の夢を結んでいる、という句です。芭蕉はどういう心持ちで詠んだのでしょう。たとえば、明日は蛸をご馳走しますよ、と言われたのかもしれません。それは楽しみ、と一旦は受けるでしょうが、その蛸は今頃……と海の底へ思いを馳せたようにも思えてきます。
凡兆は芭蕉の弟子です。こちらは庶民の暮らしを見下ろす月を詠んでいます。同じ〈夏の月〉ですが、取り合わせるもの次第で色合いまで異なって感じられます。
夏の月皿の林檎の紅を失す 高浜虚子
今生にわが恋いくつ夏の月 藺草慶子
昼間はもとより、夜も灯火の下では紅色の林檎が、月の光の中では紅く見えないのです。月の光のみの空間では闇より濃い闇の色になるのでしょうか?
後の句。「わが恋いくつ」と自問していても、恋多き女とは限りません。春の月ならばふわふわした嬉しさが伴いそうなところですが、夏の月となると色彩も味わいも変わります。青春を過ぎ、朱夏を迎えた女性が、「今生」と更にこの先をも思いながら問いかけることになるのは、いかなる状況なのでしょうか。
仲夏の今だけ使える月の季語もあります。〈梅雨の月〉です。
わが庭に椎の闇あり梅雨の月 山口青邨
春の月ありしところに梅雨の月 高野素十
青邨の庭の椎の樹は、梅雨どきを迎え、鬱蒼と茂っていることでしょう。月のあるこの夜は樹の形の闇が見えるのです。といっても視覚だけの句でしょうか。このころ椎は目立たない細かい花を無数につけ、青い匂いを放ちます。嗅覚も働いているのではないでしょうか。
素十のこの句は、季重なり(季またがり、と区別して呼ぶこともあります)の解説によく引用されます。目の前には今〈梅雨の月〉が上っています。同じ位置に、ついこの前までは〈春の月〉があって、やっぱりこうして仰ぎ見ていたなあ、という意味合いです。(春の月)も〈梅雨の月〉も季語ですが、時制は仲夏に合わせて詠まれた句ですから、この句の主たる季語は〈梅雨の月〉のほうです。一句の中で過去と現在を往き来できる贅沢を味わえる、と言ってもよいかもしれません。
〈梅雨の月〉と同じところに懸かっていた〈春の月〉は、
水の地球すこしはなれて春の月 正木ゆう子〈春〉
大原や蝶の出て舞ふ朧月 丈草〈春〉
朧のイメージが強いですが、春になったばかりのころの月は、水の精のようかもしれず、さて素十の〈春の月〉はどんな月であったのでしょう。
〈夏の月〉の傍題に〈月涼し〉があります。三夏通じて使えますが、仲夏の〈梅雨の月〉と同義でないことは明らか。〈涼し〉に適った使い方をしましょう。読み取るときも同様です。
のりかへて北千里まで月涼し 黒田杏子 (正子)