今月の季語(三月)万朶の桜
俳句で〈花〉といえば〈桜〉です。また〈桜/花〉とのみあれば、ふつうは昼間の、咲ききった桜を指します。
四方より花吹き入れて鳰の海 芭蕉
しばらくは花の上なる月夜かな 芭蕉
鳰の海は琵琶湖のこと。ときに海のように広いと思うこともある湖ですが、今は桜色に縁取りされて、花吹雪を受けているのです。鳥瞰図のようにも思えてきます。よく見えていますから昼の景とみてよいでしょう。二句目は「月夜」と夜に指定されています。花はおそらくたっぷりと雲のように咲き誇っていることでしょうが、夜の景であることは「月夜」まで読んで初めて分かるのです。
ところで〈夜桜〉のように夜の文字を加えなくても、夜の桜の季語があります。
天と地と中に息して花あかり 角川春樹
花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月 原 石鼎
〈花あかり/花明り〉は桜の白さによって、闇の中でもそのあたりが仄かに明るいことを指します。満開の夜の桜のたたずまいを表す季語です。『天と地と』は海音寺潮五郎の歴史小説ですが、これを原作とした同名の角川映画(1990年)があります(NHKほかテレビドラマにもなっています)。春樹の句は当然それを踏まえているでしょう。この句のみで鑑賞すれば、天地のあわいに生きる自分と桜を詠んだものになりますが、謙信や信玄ら(『天と地と』の時代)の歴史上の人物を意識すると、空間軸に時間軸が加わって句の世界がさらに大きくなる気がします。
石鼎の句は「月」も登場しますが、そもそも〈花影〉が「月光などによる花のかげ」(『広辞苑』)であり、夜を意識してよい季語でしょう。「月光など」の「など」が気になりますが、石鼎の句は「月」のおかげでその点もクリアしています。
花の山ふもとに八十八の母 沢木欣一
年々にわが立つ花下も定まれり 相生垣瓜人
欣一の句は空海が九度山に留めおいた母を月に九度訪うた故事を思わせます。この句には「母米寿の祝ひに金沢へ」と前書があります。欣一自身も離れて暮らす母の身を案じていたに違いありません。
後句は瓜人七十四歳の句です。句集『明治草』に〈先人の教ふるままに花も見し〉と並んで収められています。はじめは教えられたとおりに捉えようとしていたが、今では自分の見方で自分の花を仰いでいるとも読み得るのではないでしょうか。
この二句は〈花〉を季語としていますが、植物の桜を必ずしも眼前にしていなくてもよく、むしろ、実物の桜を超えたところで、自身の思いを託して詠んでいると受け止めることができそうです。
そうはいっても米寿の祝いの花や定まった花が中途半端な咲き方であるはずはなく、やはり満開の花を想定するのがよいでしょう。
花万朶をみなごもこゑひそめをり 森 澄雄
花万朶(ばんだ)は桜が満ちているさま。いつもはかしましい「をみなご」すら声をひそめるほどの花のエネルギーはまた、
永劫の途中に生きて花を見る 和田悟朗
のような詠み方もされます。さて今年の桜、どう詠みましょうか。(正子)