今月の季語(9月) 草の花
先月〈秋草〉から派生して〈草の花〉に触れたところ、案の定「〈草の花〉は秋の季語なんですか!」の声が上がりました。案の定というのは、かつて私自身がてっきり春の季語だと思い込んでいたからです。春の歳時記を繰っても見当たらず(当然です)、焦った記憶があります。ですが季語については、そういう大きな声では言えないような一つ一つの体験が貴重だと今は思えます。また、そのとき一緒に目に入ってきたので、〈花野〉も秋の季語だとインプットすることができました。電子機器による検索に比べると時間がかかりますが、紙の歳時記を使う御利益だと思います。
〈花野〉が秋の季語ならば「春爛漫の野原は何と呼べばよいのでしょう?」と早くも春の心配をする方もおられました。大づかみしてよければ〈春の野〉でしょう。ただ、土筆が出始めたころには〈土筆野〉が使えますし、最近はあまり見かけませんが〈紫雲英野〉や〈紫雲英田〉というのもあります。蒲公英が咲き誇る野ならば「蒲公英の野」と、植物の季語を使って表せそうです。春を詠むときには、春が深まってゆく喜びが同時にあります。具体的な一つ一つに目を留めて、丁寧に詠みあげてゆけばよいのではないでしょうか。
ちなみに、かつての私が〈草の花〉で詠みたかった内容は、紆余曲折を経て〈子のくるる何の花びら春の昼 髙田正子〉という句になりました。私の場合は、花そのものより、歩くようになって日々行動半径を広げつつあった幼い娘が、花を摘むという行為をしたことに心が動いたようです。自身の心とはいえ、季節違いの句を却下することがなければ、気付かなかったことかもしれません。
先月のくり返しになりますが、花のあとの〈草の穂〉〈草の絮〉、更に〈草の実〉、すべて秋の季語ですから、一連のものとして覚えておきましょう。他の季節にも草は花を付け、絮を飛ばしますが、百花繚乱の〈花野〉での諸現象を指して季語とする約束なのです。
名はしらず草毎に花あはれなり 杉風
江戸期のこの句は草と花を分けて使っていますが、まさに〈草の花〉の本意でしょう。名はあっても私たちは知らない、そうした草が花を掲げたとき、初めて心ひかれるものとなる―身に覚えがある心の動きではないでしょうか。
一靡きしたる穂草の力なし 高野素十
靡き方もあわあわとしている(ように感じられる)、たった一靡きしただけなのにもう、という句です。ところで、夏の季語を使ったこんな句があります。
めつむりて茅花流しに流さるる 福永耕二〈夏〉
〈茅花ながし〉は「風」の名前です。イネ科の茅の花穂が出揃うころに吹く湿った南風のことです。野原いちめんの茅花が風に盛大に靡くさまは壮観です。が、風が止むと花穂は凛と立ちあがります。その風情はしなやかにして力あり。素十の〈穂草〉が秋の草に他ならないことを実感します。
払ひきれぬ草の実つけて歩きけり 長谷川かな女
「力なし」と見られる秋の草ですが、〈草の実〉にはある種のしたたかさを感じるかもしれません。はらはらと力なく、たやすく本体を離れるのに「払ひきれぬ」のですから。
今日は今日のかぎりをとんで草の絮 鷹羽狩行
飛ぶのは蒲公英〈春〉の絮にも起きる現象ですが、「かぎり」には切羽詰まった感触があります。そういうところに秋を汲み取ることができる句と思いますが、いかがでしょう。(正子)