今月の季語〈十二月〉 極月
再びみたび閉ざされて歳末を迎えようとしている二〇二〇年の私たちです。ウィズコロナと聞いたとき「友だちじゃないし!」と思ったはずなのに、いつのまにか慣れあってしまったのでしょうか。まさに油断大敵です。
〈極月〉とは一年が極まる月、すなわち〈十二月〉のことですが、今日では日常的にこう呼ぶ人は少ないでしょう。私が初めてこの語を知ったのはどこかの句会の席上でした。詳細は忘却の彼方ですが、何か逃れようのない場所へ追い込まれた気分になったことだけは覚えています。今年ほどこの語がしっくりくる年はないかもしれません。いい句(?)ができるかも。挑戦してみましょう。
極月のたましひ抱いて病み昏れむ 石原八束
一人(いちにん)の欠けし極月遍路かな 黒田杏子
どちらも生死にかかわる内容と取り合わせた句です。重く厳しい状況とそれに対する覚悟のほどが伝わってきます。
極月の人の温味のある紙幣 片山桃史
極月の火の色あつめ火を焚きぬ 岩淵喜代子
極月やほうと立ちたる芥の火 岸田稚魚
対してこちらは、一年の突き当りなればこそ感じ得る温かさといえましょうか。札入れを取り出して支払いをするという行為は、小説や映画の一場面のように思える昨今ですが、ぎりぎり分かるのが昭和世代。もっとも「温味」は実際の温度に限りません。寄付や募金の景(〈社会鍋〉のような)を想像してもよさそうです。
極月の路地深く来る箒売 菖蒲あや
〈煤払〉用の箒でしょう。いつもは物売が「深く」までは入ってこない「路地」なのかもしれません。
極月の人々人々道にあり 山口青邨
こちらの「道」は天下の大道でしょう。さまざまな用を抱え、とりどりの装いで行き交う人又人。
極月や犬にもひらく自動ドア 三田きえ子
「なぜ犬が!」と大騒ぎになった店内を想像しましたが、「あれまあ、便利な世の中になったものだねえ」と感心してもよいかもしれません。極月なのだからと許容するような心持ちが醸し出す微かな滑稽味を感じます。
極月やかなしむために母を訪ふ 細川加賀
亡き母を知る人来たり十二月 長谷川かな女
同じ時期を示す〈極月〉と〈十二月〉ですが、入れ替えはきかないことを実感する例ではないでしょうか。
武蔵野は青空がよし十二月 細見綾子
大空のあくなく晴れし師走かな 久保田万太郎
〈師走〉は旧暦十二月の異称。旧暦と新暦はひと月ほどずれますが、師走だけは違和感なく新暦十二月の意に使われます。年の瀬の忙しさに、まさに「師」も「走」るといったところでしょう。前句は「武蔵野」の「野」にひかれて青空の下に広がる欅の林などを思います。後句は「師」のつく職業の人が駆け回る街中でしょうか。作者は万太郎ですから、市井の人々の暮らしが匂い立ってきそうです。
なかなかに心をかしき臘月(しはす)かな 芭蕉
(正子)