浪速の味 江戸の味(十二月) 【牛鍋(江戸)】
「八月の夜は今米久にもうもうと煮え立つ」
この言葉で始まる現代詩「米久の晩餐」。実在する浅草の牛鍋屋を詠った高村光太郎の作品です。
肉食を禁止していた江戸時代も、幕末になると牛鍋屋がちらほら開業していたようです。特に外国人居留地で需要の高い牛肉が国内で調達できるようになると、横浜を中心に牛鍋屋が増えていきました。
当初は肉の保存方法の未熟さや薄くスライスできないことから、肉が獣臭く、葱などの香味野菜と味噌の味付けで匂いを消していました。明治元年に創業し現在も続く横浜の牛鍋屋では、いまもサイコロ状の肉を味噌仕立てにして食べさせてくれます。
牛鍋は文明開化の象徴と言われ、散切り頭の客が牛鍋をつつく画が残っています。かの福沢諭吉も『肉食之説』という“学問のすゝめ”ならぬ“肉食のすゝめ”を発表。それもあってか、明治十年頃には東京の牛鍋屋は500店を超していたそうです。
牛鍋は、歳時記では冬の季語「鋤焼」の傍題となっています。鋤焼は、割下を使う関東風と砂糖と醤油で肉を焼く関西風が知られていますが、割下で煮る関東風は、牛鍋からきた調理法と言われています。
光太郎の詩に登場する「米久」は明治19年創業、現在も浅草寺の近くに店を構えています。「米久の晩餐」は、客や店員の会話がいきいきと描かれた七十行にも及ぶ長い詩。やや気取った鋤焼とはひと味違う庶民的な牛鍋の温かみと、そこに群がる人々の哀歓が溢れています。(光枝)
牛鍋や昨日のくもる硝子窓 光枝