今月の花(3月)_桃〈花桃〉(バラ科)
「桃の里」と名うって観光客をひきつける町が、毎年にわかに脚光を浴びるのは桃の節句がすんでからのこと。雛祭りにいけられる桃はこの日めざして切り取られ 前もって室にいれられて店頭に並ぶ。
中国原産の桃は万葉集の大伴家持の歌にも登場し、実は奈良時代にすでに観賞用として飾られていたといわれる。一重や八重、ピンクや白のほか、菊の花のような菊桃、赤や白のまじったいわゆる源平咲きもある。
この季節、花桃が稽古の時は「桃は使わないで持って帰ります」という生徒がいる。「だって開いたとたん花がばらばらおちるのだもの。」枝を何箇所か縛っている紐は、枝の上の部分を持ちながらそっと上から下に順に切ってはずしていく。下から上という人もいるが、ともかく注意深く、しおられた枝を広げていく。まっすぐな枝は矯められないこともないのだが、そうしようとすると確かに花が落ちる。
ある時、いつも使うホールでいけばなのデモンストレーションがあった。なにもないところからいけはじめ、作品がいけあがっていく過程を観客は楽しむのである。大ベテランの先生は次々と華麗な作品をいけていき、最後の作品となった。今を盛りと咲き誇る2mほどの数本の花桃の枝が舞台に登場したとき、会場からワーッと言う声があがった。人の背の高さほどの数個の花器に桃は次々といけられていった。機敏に動く数名の助手が、切り捨てられた枝をひろっていく。先生が枝を手に取るたび花びらが舞い上がった。
その様子を見ていた私は、ホールの舞台の板張りの床に、なぜ黒いじゅうたんが敷き詰められているのかがわかりはじめていた。すべてが終り 助手たちがさっと舞台袖に退場した。
「桃源郷をあらわしてみました。」
黒いじゅうたんを覆ってしまうかのような数え切れない桃の花びら。まだときおりひらりと花びらが散りかかる桃の下に、フィナーレの挨拶に立たれたふくよかな先生の満面の笑み。亡くなってずいぶんたった今でもこの季節になると思い出す。
落椿,落花 そしてこの花桃。花にはまだまだ知られていない表情がある。それを自分で見つけ出すときが、至福の瞬間である。 (光加)