今月の季語(七月) 夕立
〈七月〉は水の無い月であるはずなのに、昨今は水の印象が強くなっています。梅雨が長引いたり、早々に台風が来てしまったり、頻繁にゲリラ豪雨に襲われたりするからかもしれません。昼間は晴れて暑く、午後雲行きがあやしくなり、一雨のあとはすかっと涼しく、という昔ながらの夏の一日を懐かしみつつ、今月は「夕立」の句をたっぷり読んでみましょう。
祖母山も傾山も夕立(ゆだち)かな 山口青邨
まずはこの句から。祖母山は大分、熊本、宮崎の三県にまたがる山です。傾山はその前山、大分と宮崎の県境にある祖母山系の山です。青邨はこの句の自註に「そぼさん」「かたむくさん」とルビを振っていますが、一般に傾山は「かたむきやま」「かたむきさん」と呼ぶようです。
昭和八(1933)年、仕事で鉱山を訪ねた帰り、道が悪いので馬のほうが楽だといわれ、「杣人についてもらってぱかぱかと歩いた」のだそうです。
「そのうちに山の方は空模様が変って夕立雲が祖母山をおおいかくした。見るまに傾山も見えなくなった。雲は真黒く、雨脚が見えて夕立が烈しく降っているようであった。この光景は雄壮であった。」
馬上で何度も振り返りながら眺めていた青邨でしたが、あっという間に雨に追いつかれてしまったとのこと。
さつきから夕立の端にゐるらしき 飯島晴子
夕立は一塊の生き物のようです。このとき晴子の頭上は半分青かったかもしれません。照ったり降ったりする中を歩きながら、「端」にいるのかも、と思ったのでしょう。
法隆寺白雨やみたる雫かな 飴山 實
白雨は夕立のこと。視界が白く閉ざされるほどの雨です。法隆寺で激しい降りに見舞われた作者は、堂塔のどこかで過ぎ去るのを待っていたのでしょう。案の定ひとしきり降ったあと、すっきりと雨が上がり、庇から落ち続ける雫には、日が差してきているようにも感じます。
薬師仏白雨はゆめのごと過ぎし 鍵和田秞子
「平泉 七句」と前書があります。となれば「ゆめ」とは〈夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉〉の夢を受けているでしょう。白雨は鬨の声のように激しく、束の間に過ぎたのかもしれません。七句の内にはもう一句〈白雨去り日の一すぢを光堂〉と白雨の句があります。
東京を丸ごとたたく夕立かな 渡辺誠一郎
前の句は、東京の人が詠んだみちのくの句ですが、こちらはみちのくの人が詠んだ東京の句です。上京の折に見舞われたのでしょう。高層ビルの間にまっすぐに立つ白い雨脚、舗装され尽くした地を打つ音、――みちのくの夕立とは異なるものであったに違いありません。
夜を叩いてスコールの通りけり 倉田紘文
すみずみを叩きて湖の驟雨かな 綾部仁喜
〈スコール〉〈驟雨〉は夕立の傍題です。スコールは熱帯地方の驟雨のことですが、今や降れば必ずスコール状態の日本です。驟雨はすでに元禄(江戸時代)のころには用例の見られる語ですが、どちらの句も極めて現代的な景に思えて来るのは、音の響きによるでしょうか。
夕立は傍題の多い、つまりそれだけ暮らしになじんだ季語です。表記や音の響きを選んでとりどりに詠んでみましょう。(正子)