ライラック、というよりフランス語でリラと呼ぶほうが、ヨーロッパの香りを運んできてくれそうなこの花、もくせい科で香水も作られます。
明治時代に日本に入ってきたライラック。この花が咲くと、当時の人々はさぞ(ハイカラな花だ)と喜んだ事でしょう。今では、北海道など北の地方で初夏の爽やかな季節によく見かけます。
細めの枝の先に小さな花が集まって房となり、薄緑の卵型の葉は徐々にその緑を深めていきます。花屋の店先ではそれぞれ濃い紫、紫、ピンク、白などの花房を競っています。真っ直ぐな茎にほとんど葉をつけないものも出回っています。そんな種類は輸入物のことが多いのだそうです。
モスクワに行ったのは、ソビエト連邦からロシアになった次の年の春。先輩の講師と私で、元は映画館だったという600人収容の会場でデモンストレーションを依頼されました。
早速、花材集めのため街にでて、エリツイン大統領がラジオで民衆に呼びかける放送をしたというがっちりとした建物の前を通り、2箇所の花屋に案内されました。一つは国営でもうひとつは民間のもの。予想通りデモンストレーションにむきそうなものは両方の店でもⅠ、2種類しかありませんでした。
青空市が立っているという道に抜けていくと、それぞれの店の板の上にはアンテイークのグラス、ライターや人形、手編みのマフラーや財布などがぽつりぽつりと並んでいます。その中の一軒でブローチを手に取っていると〔外貨を持っているのなら安くする〕と、寄ってきた男が耳元でいいました。
気がつけば紫と白のライラックを抱えて声をかけている人たちが立っているではありませんか。眩しい光の中で腕の中のライラックはどんな商品よりみずみずしく見えました。まさに今朝、自分の家や近所から切ってきたのでしょう。水につけないとすぐしおれてしまうライラック。30センチほどの長さに切られていたため、花の房の先はうなだれてしまっていました。しっかりしている花を選んで譲ってもらい、すぐさま準備の場所の大使館のガレージに持ち帰り、水を入れたバケツの中で数回元をきりました。30分もつけておくと、花の先から次々にぴんとしてきて上品な香りも復活し、胸をなでおろしました。
花を売る人がいるということは、また花が好きでこの人たちから買う人もいるのでしょう。花売りはお年寄りのほか主婦や学生のような人も見受けました。新しくなった国の体制への期待と不安の中、庶民の尽きない逞しさも感じました。
今では、モスクワには私の属すいけばなの流派の支部は三つあります。あの日舞台の上から、ライラックはここ、モスクワで手に入れたもの、という説明がなされると、見つめている満員の観客の空気がふっと緩むのを感じました。ライラックの花が、二つの国にごく小さな橋を架けた瞬間だったのではないでしょうか。(光加)
ライラック夢のつづきを見たき朝 光加