カフェきごさい店長、飛岡光枝が捌く「いどばた歌仙 飛梅」が始まります。どなたでも参加可能なネット歌仙です。参加ご希望の方は、長谷川櫂さんのサイト「俳句的生活」の「いどばた歌仙 飛梅」参加フォームからどうぞ。第一巻は4月1日スタート、途中からの参加はできませんのでご注意ください。歌仙初心者の方も気楽にご参加ください。お待ちしています。(店長)
今月の季語(4月) 春の雨(2)
かつては月に3回は吟行に出かけていた私ですが、今年は本日3月17日までにようやく3回出たという為体です。
その3回目は3月初旬。行先は東京上野の不忍池界隈でした。折から冷たい雨が降ったり止んだりしていましたが、空が明るくなると草木の芽が囁き出すような一日でした。
〈春の雨〉は文字通り立春以降の雨のこと。三春通して使える天文の季語です。雨の総称ですから、どんな降り方のときにも使えます。
降り来るはさし足なれや春の雨 貞室
がうがうと春の雨ふる滝の中 原子公平
公平の雨は「滝」と一体化して「がうがう」と降っているのでしょうが、滝に拮抗するほど「がうがう」であろうと思えます。
一方〈春雨〉は現代では〈春の雨〉と同義で用いることも多いですが、万葉の昔から受け継いで来ている本意があります。即ち静かに降り続くさまに晩春の情趣を感じ取る、というものです。
春雨や小磯の小貝濡るるほど 蕪村
春雨といふ音のしてきたるかな 鷲谷七菜子
静かにあたたかく物を濡らしてゆく雨、という共通認識があるからこそ、七菜子は「春雨といふ音」を何の説明も付すことなく詠めたのでしょうし、「春雨じゃ、濡れて参ろう」と言った月形半平太は、しっとりと濡れたのに相違ありません。
先日の吟行で私が体験した雨は、〈春雨〉と呼ぶには少し早かったようですが、小止みになったときにはその雰囲気も味わえるものだったといえそうです。
〈時雨〉は降ったり止んだりする雨を指す冬の季語ですが、春にもそういう降り方の雨があります。〈春時雨〉です。
いつ濡れし松の根方ぞ春しぐれ 久保田万太郎
晴れぎはのはらりきらりと春時雨 川崎展宏
急に降り出して降り止む、より激しいにわか雨は〈春驟雨〉と呼びます。
春驟雨花買ひて灯の軒づたひ 岡本眸
〈春時雨〉も〈春驟雨〉も「春」の一字によって華やぎを得た雨といえましょう。
植物の名により明るさを得た雨もあります。菜の花が咲くころ降り続く長雨を指して〈菜種梅雨〉といいます。
幻に建つ都府楼や菜種梅雨 野村喜舟
炊き上がる飯に光りや菜種梅雨 中嶋秀子
また花時の雨、もしくは眼前の桜に降り注ぐ雨を〈花の雨〉といいます。
使いひよき針三ノ三花の雨 鈴木真砂女
金閣の金の樋にも花の雨 品川鈴子
俳人にあいにくの雨は無し、ですがくれぐれも風邪をひかぬよう。(正子)
浪速の味 江戸の味 3月【高山まな】(浪速)
キリシタン大名として知られる高山右近は、摂津国三島郡高山庄(現在の大阪府豊能郡豊能町)出身です。北摂山系の山々に囲まれた標高400メートルの高山庄を代表する野菜が「高山まな」です。真菜はアブラナ科の菜花で、地中海原産のものが中国を経由して我が国に伝えられたと言われています。全長20~30センチで、400年前から、自家採種しながら大事に守り育てられてきました。それが認められ「なにわ伝統野菜」の一つに選ばれています。
「高山まな」は、茎まで柔らかく風味があります。カロテン、ビタミンC、カルシウム、鉄などの栄養素を豊かに含んだ野菜です。花の部分のほんの少しの苦味も、辛子和えや、白和えなどにすると風味を増します。お揚げさんと炊いたんなど、出汁との相性もいいです。
また「高山まなの漬物」がよく知られています。分量は、まな1kgに対して塩40gです。まなを一つかみずつ塩で揉み、容器に漬け込みます。残った塩は全体にふりかけます。まなの倍の2kgの重石を置き水が上がれば食べられます。まなを塩漬けにして3~4日目が食べごろです。
隠れキリシタンも食べたであろう、山里で受け継がれてきた早春の味を楽しみたいと思います。
春浅し高山まなを漬けにけり 洋子
今月の花(三月)黒文字の花
写真の男の子は門下のひとり、小学2年生です。のびのびと黒文字の枝をいけてくれました。(個人情報保護のため顔半分の写真で失礼!)。
この時期は、繊細な線の先にまだ固い茶色の蕾を付けた黒文字をいけることが多くなってきます。同じクスノキ科の青文字も直径3ミリほどの薄緑の実のような蕾をつけます。
青文字は茎も枝も緑色ですが、黒文字は枝に黒い斑のような模様が入っています。それが文字のように見え、この名がつけられたと言われています。
青文字は花を包む薄緑色の皮をつぶすと柑橘系の香り、また黒文字も枝を切って鼻を近づけるとよい香りがして、春の鼓動を感じるのです。
この枝達が花材として出始めると、春の到来をいち早く確かめたくて切ったりつぶしたりして香を楽しみます。和菓子を頂くときの楊枝に使うのはこの芳香も関係しているのかもしれません。
黒文字は爪楊枝にも使われています。いまでこそ歯間ブラシなどがありますが、つい数十年前まで食後はもっぱら爪楊枝が使われていました。前家元の外国出張に、通訳兼秘書として随行した折(先生は東京の専門店のこのサイズの爪楊枝をお使いなので必ず荷物に入れるように)という伝達事項がありました。普通の楊枝より細く強くしなやかだからということで、黒文字で作られたものでした。この店は今でも東京にあり、たくさんあった楊枝専門店も今では全国にここだけということです。
「植物を口の中へ」ということで思い出す、不思議な光景があります。サウジアラビアのリヤドのマーケットで男性数人が口の中に木の細い棒を突っ込み、チツチツと磨くような動作をしていました。(あれが買いたい!)と私と助手は短い棒のようなものが数本輪ゴムで束ねられたものを市場でお土産に買いました。その木の枝は口の中で柔らかくして歯ブラシ代わりに使うと説明を受けました。乾いた薄茶色の木は何の木なのか、という疑問がずっと残りました。でも、自分で口の中にいれる勇気はなくそのままになってしまいました。
「歯木(しぼく)」というものがあり、お釈迦様に深く関係していて柳の枝などが使われているそうです。おつとめの前に口の中も清潔にということなのでしょう。また江戸時代に使われていた房楊枝は、黒文字や柳の小枝の先を煮て叩いて割り、かみ砕いて歯ブラシ代わりにしていたということを考えると、リヤドでみた光景は日本のあの時代の歯磨きと同じなのかと思いました。楊枝という字は確かにやなぎの枝の意味です。そして今でも房楊枝が残っている国があるそうです。
黒文字の話がとんだ話になりました。プラスチック由来の廃棄物が地球を汚すと危惧されている今日、人の生活に密着した植物素材の物はさらに注目を浴びることでしょう。黒文字も口の中を清潔にするのにお役に立とうと、さらなる登場の機会を狙っているかもしれません。(光加)
今月の季語(三月)日永
日に日に春めいてくるさまが嬉しいころとなりました。日もゆっくりと暮れて、夕方五時のチャイムを落ち着いて聞けるようになってきました。五時に変わりはありませんが、暗いとそれだけで忙しないですから。
そんなさまを表す春の季語が〈遅日(ちじつ)〉です。〈暮遅し〉〈夕永し〉ともいいます。
遅き日のつもりて遠きむかしかな 蕪村
暮遅き加茂の川添下りけり 鳳朗
この庭の遅日の石のいつまでも 高浜虚子
銀座には銀座の歩幅夕永し 須賀一惠
〈遅日〉は文字通り日没時刻が遅くなったことを意味しますから、句の中の「今」は夕方でしょう。夕暮時にむかしを思い、川に沿って下り、石を見つめ、銀座を歩いているのです。
昼の時間が長くなったことのほうに比重を置きたいときには〈日永〉〈永き日〉を使います。
鶏の坐敷を歩く日永かな 一茶
笊ひとつ置いて日永の小商ひ 行方克己
永き日のにはとり柵を越えにけり 芝 不器男
こちらは真昼でも夕方でも好きな時間帯で鑑賞できるでしょう。のんびりした気分があって〈長閑(のどか)〉や〈麗か(うららか)〉にも近そうです。
何といふことはなけれど長閑かな 稲畑汀子
石三つ寄せてうららや野の竈 福永耕二
ストレートに〈春の昼〉〈春昼(しゅんちゅう)〉を使うこともできます。
春昼の指とどまれば琴もやむ 野澤節子
私自身もかつて兼題の〈のどか〉で案じ始めて、〈春の昼〉に落ち着いたことがあります。
子のくるる何の花びら春の昼 髙田正子
これらはすべて時候の季語で、おおざっぱにとらえれば同義といえましょう。ですが、明らかに違いはあります。詠み分けを試みると春の気分がますます高まることでしょう。
意味は近いのですが、季節違いの季語に〈日脚伸ぶ〉があります。こちらは、冬至を過ぎて昼の時間が少しずつのびていくことを表す晩冬の季語です。
日脚伸ぶ励むにあらず怠けもせず 清水基吉〈冬〉
日脚伸ぶ母を躓かせぬやうに 広瀬直人〈冬〉
まだまだ寒いですが、確実に春が近づいて来る実感がじんわりと伝わってきます。
〈三寒四温〉はこのころの季語です。〈三寒〉〈四温〉別々に使うこともできますが、いずれも晩冬の季語です。
黒板に三寒の日の及びけり 島谷征良〈冬〉
四温かなペン胼胝一つ芽のかたち 成田千空〈冬〉
(正子)
浪速の味 江戸の味(二月)あられ蕎麦(馬珂貝)【江戸】
東京でも千葉の海に近い葛飾区の我が家では潮干狩りが春の楽しみのひとつ。浅利よりも、大きな蛤が狙いでした。つるつるとした大ぶりの貝の手触りに蛤だと掘り上げると「バカガイだね」と親が声をかけました。子どもにはバカガイという名前が面白く、姉と「バカガイとった~」とよくふざけ合ったものです。
「馬珂貝」は、浅利や蛤と同様、江戸では食用として馴染み深い貝でした。様子は蛤に似ていますが、貝殻がうすく輸送には不向きでした。また、砂抜きをしても砂が残ることから、剥き身として売られることが多く、剥き身を造る深川の女性の様子などが浮世絵に残っています。
「馬珂貝」の剥き身は、現代でも寿司種として「青柳」の名でよく知られています。江戸時代、千葉県青柳村で多く採取されたのでこの名がありますが、「馬珂貝」という名が粋を好む江戸っ子には嫌われたのではないかと思われます。
その青柳(剥き身)も選り分けて使われ、貝柱は「あられ」と呼ばれます。蕎麦の上に敷いた海苔に「あられ」を散らした「あられ蕎麦」は、冬から春の季節の蕎麦として江戸っ子に人気でした。
現代では「あられ蕎麦」を出す蕎麦屋は少なくなりました。その原因のひとつは「青柳」が高級食材になってしまったからでしょう。写真は明治二年創業の日本橋の蕎麦店の「あられ蕎麦」。値段表には「時価」とあり、どきどきしましたが、この時はかけ蕎麦の三倍程度でした。ここの「あられ」は千葉県富津からのもの。仕入れが少なく、なんとこの日はこの一杯しか出来ないとのことで、値段以上に驚きました。
庶民の食べ物が贅沢なものになってしまうのは、何とも寂しいものです。資源の減少は個人レベルでは防ぎようがないと思ってしまいがちですが、海や自然を汚さないように少しでも気をつけてこの一年も過ごしたいものです。
あられ蕎麦下駄つつかけて初不動 光枝
今月の花(二月)山茱萸
春の兆しが伝わってくるのは花店の店先に黄色の花を見かけた時です。1月の末にはこの季節ならではのラナンキュラスやチューリップ、フリージアや菜の花など黄色い花でにぎわいます。眺めるだけでこちらまで温かさが届けられる気分になります。
一方このころは学校では試験の季節です。
私たちの流派でも師範の最高の資格とその一つ下の資格獲得のため、このころ年に一回、家元立ち合いの試験があります。その一つに時間内にその日与えられた花材でいける試験があります。詳しいことはここでは述べられませんが、当日その場で発表される花材はこの季節ならではの花材です。長い年月いけばなを勉強してきた国内外からの受験者は、その日が近づくと今年の試験には何の花材を使うのかしらと気になるのです。
花ものと同じく、黄色の花をつけた花木(かぼく)もこのころから登場します。山茱萸、連翹、万作と、黄色の花たちが早春の光に呼応して固いつぼみをほころばせます。
初稽古も終わり通常のクラスに戻ったころ、スタジオにまっすぐな線の褐色の枝の束が届けられました。目を凝らしてみると、小さなころりとした花芽の先がかすかにとがっています。他の枝には黄色い花があちこちとほころびはじめていました。山茱萸です。
枝は素っ気ない位の直線ですが、矯めてみると意外と思うような線が作れます。幹に手が触れると、茶色の樹皮はところどころ薄く剥がれます。太い枝は鋏で一度にはなかなか切れないのですが、鋏で注意深く切れ目を入れながら力をかけて曲げます。力の入れ加減によっては枝が折れたかと思うかもしれません。直径の3分の1くらい繋がっていれば水は上がっていき、花も開き、春に宿る生命力の強さに目を見張ります。
ミズキ科の山茱萸は18世紀の初頭に日本に渡ってきたと言われ、成長すれば5メートル以上の高さになります。うららかな雲一つない青空に枝を広げ、小さな黄色い花を無数に付けたさまは、他の花木を率いていよいよ到来した春のにぎやかな空間の出現を予感させます。
「サクラサクーー」かつて試験の合格を知らせる電報は、さくらにたとえられて届きました。さて、私たちの流派の試験の結果はもし植物に例えれば、今年はなんの植物が吉報となって心待ちにしている受験者たちに伝えられるのでしょうか。(光加)
今月の季語〈二月〉 冴返る
〈冴ゆ〉はキーンと音がするほど寒い様子を表す冬の季語です。立春を過ぎ、少しは暖かくなってきたようにも感じるころ、再び〈冴ゆ〉状態になることを〈冴返る〉といいます。「返る」は「戻る」の意。春の季語です。
普段の暮らしの中で「冴えている」と言うとき、濁りがなく際立っている、とか、鮮やかであるという意味を籠めるように、季語の〈冴ゆ〉(冬)や〈冴返る〉(春)には寒さのみならず、色や光を際立たせる働きがあるようです。
真青な木賊の色や冴返る 夏目漱石
冴返る二三日あり沈丁花 高野素十
翻然と又敢然と冴返る 相生垣瓜人
漱石の「木賊(とくさ)」はいつにもまして青々と鋭く、素十の沈丁花はいよいよ清らかに香りたつようです。翻然はひるがえるさま、敢然は思い切ったさまを表す語ですから、暖かくなったと人を油断させておいてなんとまあ鮮やかに冷えてくれたことか、と瓜人は呆れているのでしょうか、怒っているのでしょうか。
冴え返るとは取り落すものの音 石田勝彦
音も響きそうです。取り落したのは、久しぶりに手が悴んだせいでしょうか。気に入りのグラスが見事に割れてしまったのかもしれません。
冴えかへるもののひとつに夜の鼻 加藤楸邨
夜になってますます冷え込み、その空気の出入りする鼻が冷たい、痛いと感じることは誰にもあるでしょう。ふと触れた鼻が冷たいことも。楸邨は面長でやや鼻が目立つ風貌をしておられました。自らのカリカチュアであるような詠み方に、思わずくすりと笑ってしまいます。
〈冴返る〉と同義の季語に〈余寒〉があります。春になったのに残っている寒さのことです。余寒の余は余韻の余。寒いとはいえ、冬の寒さとは違うことを、体のどこかで感じているのかもしれません。
鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子
南都いまなむかんなむかん余寒なり 阿波野青畝
どちらも地名が詠み込まれています。鎌倉の人々は奇襲に遭ったように驚いたのかもしれません。南都は奈良のこと。「なむかん」は「南無観世音菩薩」。東大寺二月堂で執り行われる「水取(修二会)」で練行衆が「なむかんなむかん」と声明を唱えているのです。
水取や氷の僧の沓の音 芭蕉
かつて芭蕉がこう詠んだように、水取のころの南都は冷えるのです。
橋の灯の水に鍼なす余寒かな 千代田葛彦
「鍼(はり)なす」とは美しい表現です。ちらちらと揺れる水のさまが見えて来そうです。
視覚や聴覚にも訴えて来る寒さを、さて今年はどう詠みましょうか。(正子)
第九回 カフェきごさいズーム句会
毎月1回ズームで行う「カフェきごさいズーム句会」、今月の句会報告です。
添削例も参考にしてください。
この句会はどなたでも参加可能です。ご希望の方は右のご案内から、どうぞ。
第九回 2023年12月9日(土)
飛岡光枝選( )は添削例
第一句座
【特選】
浅草や色とりどりに着ぶくれて 鈴木勇美
鵯の食ひ散らかすや木守柿 早川光尾
雪催たんと漬け込む山東菜 前﨑都
出番待つ羊並ぶやクリスマス 高橋真樹子
(出番待つ子羊並ぶクリスマス)
【入選】
初氷秩父連山晴れ晴れと 藤倉桂
空つ風鯛焼き二つポケットに 藤倉桂
イマジンの遠くなりけりレノンの忌 早川光尾
夕されば欲しき寄る辺や寒昴 伊藤涼子
飄々と冬の空へと旅立てり 前﨑都
眠る山起こさぬやうに山の径 斉藤真知子
舌仕舞ひ忘れて猫の日向ぼこ 赤塚さゆり
咲き満ちて大シャンデリアしやこさぼてん 伊藤涼子
柚子の香のふはり風呂吹透きとほる 伊藤涼子
(柚子の香の風呂吹大根透きとほる)
鯛焼の惜しみなく餡はみだしぬ 高橋真樹子
アリゾナは海の墓標に開戦日 伊藤涼子
(アリゾナは海の墓標よ開戦日)
滔滔と黒き大河や去年今年 葛西美津子
第二句座(席題、冬芽、鼻水)
【特選】
知らずして水洟垂らす写経かな 葛西美津子
水洟を拭く間も惜しく遊びけり 上田雅子
【入選】
ほの赤き冬芽を包む小さき手 藤井和子
鼻水の乾き切つたる笑顔かな 藤倉桂
吹き荒ぶ風も落とせぬ冬芽あり 藤井和子
街路樹は冬芽ゆたかに北辛夷 高橋真樹子
くちやくちやの笑顔の羅漢みずつぱな 藤倉桂
鼻水も空飛んでゆく大回転 藤井和子
水洟をすすりて詠まん戦の句 矢野京子
しろがねや天を目指して冬木の芽 伊藤涼子
樹齢百年牡丹の冬芽赤々と 藤倉桂
(百年の牡丹の冬芽赤々と)
今月の花(一月)若松
花店の社長から、今年はまあまあの松と聞いてほっとしました。その年の気候により、緑と黄色が美しい蛇の目松は「ちょっと色が今一つ出てないねえ」といわれたり、若松は「葉の伸びが・・・」とか報告が入ると、それらを予約した生徒さんにはほかの松をすすめます。
稽古の日、外国出身の方もいました。学生時代から日本に在住、夫人は日本の方、いけばなはもう18年以上たしなみ、今の先生の許可を得て数年前から私のクラスにも時々やってくる方です。昨年は確か大王松をいけていました。
今年選んだのは若松。90センチ近くありまっすぐに伸びたいい形で長めの青々とした葉もたっぷりと房を作り、近年にない美しい立派な若松と思いました。
ふと彼を見ると若松を一心に曲げようとしているのです。いけばなでは、自分がこうあるであろうという自然を表現するには、無技巧の技巧と言われるように元からあるように枝を曲げる技術を習いますが、一方で花材が美しければそれをそのまま生かしていける決断も必要です。
彼は何度もお正月にこの松をいけただろうとは思いましたが、なぜお正月に松をいけるのか、日本の照葉樹林文化のことも説明しました。葉が散った樹々の中で常緑樹の松は、特別な力を持っていると考えられ、能舞台の背景に松が描かれるのは,神を迎えて演じられるという意味があること、門松も年の神様を迎えるということで立てられるということ。
むろん展覧会や表現を追求する研究会などは松をどのように使っても可能です。部屋に松を使ったたくさんのいけばながあれば、その一つとして若松を使って曲線を作るのも面白いと思います。またお店に飾るなら松を水につけず、若松を真横にいけても受け入れられるでしょう。展覧会で大王松の葉をすっかり取り造形的に形を作る作家もおいでです。
襟をただしてまっさらな年を迎える。私なら今年のこんなに美しい若松は、お気に入りの花器にすっくと立てて使い神様を迎えたいと思った時、気が付きました。生まれてこの方、年末から年明けまでこの時期に日本を出たことは一回しかありませんでした。日本に生まれ、どっぷりと日本文化に浸っていた自分に気が付いたのです。
松は外国にもたくさんあります。シンガポールに夫君が駐在の門下は、生徒さんと輸入の松をいけました、中国か台湾からと思われますと写真を送ってきました。ドイツからはドイツの松を使いましたという写真には、赤いたわわな実をつけた庭の南天も一緒にいけられていました。日本みたいな松はこちらにはないわ、近いのは盆栽を作っている所ならあるけど短いのでいけばなには向かない、というオーストラリアの門下。ローマの笠松も思い出し、世界の松に思いを馳せながら、皆様の新しい年のご多幸をお祈りいたします。(光加)